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第71話「雨の日」

 翌朝、目が覚めると雨だった。


 静かな、細い雨。軒先を叩く音が、朝の空気に溶けていた。


 フェンが縁側から外を見ていた。


「……来ると思うか」と私は聞いた。


「来る」


「雨なのに」


「だから来る」



 昼前に、濡れた外套を纏った殿下が玄関に立った。


 傘はあったようだが、それでも肩のあたりが少し湿っていた。


「……来ました」


「来ましたね」


「雨でも、と言ったので」


 フェンが縁側から「言ったとおりだ」と言った。



 外套を預かって、お茶を出した。


 雨の日の研究所は、少し暗い。窓から見える庭が、霞んでいた。ラベンダーが雨に打たれて、重そうに揺れていた。


「いつもと違う顔の庭ですね」と殿下が言った。


「雨の日は、少し沈んだ色になります」


「嫌いですか」


「……いいえ。こういう日は、蒸留の仕事が捗ります」



 午後になっても雨は止まなかった。


 私が薬草の整理をしていると、殿下が「手伝えますか」と言った。


「乾燥させたものを、種類ごとに分けるだけです。単純な作業ですが」


「構いません」


 二人で、並んで作業をした。


 殿下は口数が少なかった。でも隣にいることが——何というか、ちょうどよかった。



「……昨日の話ですが」と殿下が言った。


「宮廷のことですか」


「あなたが、怖いと言わなかったことを——少し、考えていました」


 私は手を止めた。


「怖いですよ、正直には。ただ——もう、怖さで立ち止まらないと決めたので」


「いつ決めたのですか」


「……ここで暮らし始めてから、少しずつ。一度、自分で立ったら——次は折れにくくなりました」



 殿下がしばらく黙った。


 雨の音が、静かに続いていた。


「俺は——あなたのそういうところが好きです」


 私は少し、戸惑った。


「どういうところですか」


「折れにくいところ。でも——折れそうだったことを、ちゃんと知っているところ」



 フェンが近づいてきて、殿下の膝に頭を乗せた。


 殿下が少し驚いた顔をした。


「フェンリル?」


「……うるさいなら言え」


「いいえ。嬉しいです」


 フェンが何も言わなかった。でも——動かなかった。



 夕方近くに雨がやんだ。


 雲の切れ間から、橙色の光が差し込んできた。庭のラベンダーが、雨のあとで少し輝いて見えた。


「……きれいですね」と殿下が言った。


「雨上がりは、いつもこうです」


「また来てもいいですか。雨の日に」


「どうぞ」


「雨が好きになりそうです」


 私はその言葉を聞いて、少しだけ笑った。


 雨でも来ると言った人が、雨を好きになろうとしている。


 それが——なんだか、嬉しかった。


(第72話へ続く)

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