第71話「雨の日」
翌朝、目が覚めると雨だった。
静かな、細い雨。軒先を叩く音が、朝の空気に溶けていた。
フェンが縁側から外を見ていた。
「……来ると思うか」と私は聞いた。
「来る」
「雨なのに」
「だから来る」
◆
昼前に、濡れた外套を纏った殿下が玄関に立った。
傘はあったようだが、それでも肩のあたりが少し湿っていた。
「……来ました」
「来ましたね」
「雨でも、と言ったので」
フェンが縁側から「言ったとおりだ」と言った。
◆
外套を預かって、お茶を出した。
雨の日の研究所は、少し暗い。窓から見える庭が、霞んでいた。ラベンダーが雨に打たれて、重そうに揺れていた。
「いつもと違う顔の庭ですね」と殿下が言った。
「雨の日は、少し沈んだ色になります」
「嫌いですか」
「……いいえ。こういう日は、蒸留の仕事が捗ります」
◆
午後になっても雨は止まなかった。
私が薬草の整理をしていると、殿下が「手伝えますか」と言った。
「乾燥させたものを、種類ごとに分けるだけです。単純な作業ですが」
「構いません」
二人で、並んで作業をした。
殿下は口数が少なかった。でも隣にいることが——何というか、ちょうどよかった。
◆
「……昨日の話ですが」と殿下が言った。
「宮廷のことですか」
「あなたが、怖いと言わなかったことを——少し、考えていました」
私は手を止めた。
「怖いですよ、正直には。ただ——もう、怖さで立ち止まらないと決めたので」
「いつ決めたのですか」
「……ここで暮らし始めてから、少しずつ。一度、自分で立ったら——次は折れにくくなりました」
◆
殿下がしばらく黙った。
雨の音が、静かに続いていた。
「俺は——あなたのそういうところが好きです」
私は少し、戸惑った。
「どういうところですか」
「折れにくいところ。でも——折れそうだったことを、ちゃんと知っているところ」
◆
フェンが近づいてきて、殿下の膝に頭を乗せた。
殿下が少し驚いた顔をした。
「フェンリル?」
「……うるさいなら言え」
「いいえ。嬉しいです」
フェンが何も言わなかった。でも——動かなかった。
◆
夕方近くに雨がやんだ。
雲の切れ間から、橙色の光が差し込んできた。庭のラベンダーが、雨のあとで少し輝いて見えた。
「……きれいですね」と殿下が言った。
「雨上がりは、いつもこうです」
「また来てもいいですか。雨の日に」
「どうぞ」
「雨が好きになりそうです」
私はその言葉を聞いて、少しだけ笑った。
雨でも来ると言った人が、雨を好きになろうとしている。
それが——なんだか、嬉しかった。
(第72話へ続く)




