第70話「夏の夜に」
真夏の夜は、空気が動かない。
窓を開けても風がなくて、薬草の香りだけが研究所に満ちていた。フェンが縁側でべったりと伸びていた。
「暑いですか」
「暑くない。だが、動きたくない」
「それは暑いのでは」
「……うるさい」
◆
その夜、殿下から手紙が来た。
「明日、少し早く来ていいですか。話があります」
私は返事を書いた。「はい、どうぞ」
フェンが「また来るのか」と言った。
「嫌ですか」
「……嫌ではない」
◆
翌朝、殿下は約束より少し早く来た。
顔が、少し疲れていた。
「……どうかしましたか」
「少し、複雑なことがありました」
縁側に座って、お茶を出した。
「王城の一部で、俺の選択について——快く思わない声があるようです」
◆
「……そうですか」
「あなたが元人妻だということ。家門が今は薬師であること。そういうことを、問題にする者が」
私はしばらく、その言葉を受け取った。
「……怖いですか、と聞きますか」
「聞こうとしていました」
「怖くはないです。ただ——殿下に迷惑をかけるのが」
「迷惑ではない」と殿下が静かに言った。「俺が選んだことです。俺が対処します」
◆
「……でも、一つだけ聞いていいですか」
「なんですか」
「後悔していませんか」
殿下がこちらを向いた。
「していません」
「本当に」
「本当に。——そういうことを言う人間がいることは、最初からわかっていました。それでもあなたを選んだのは、俺です」
◆
フェンが縁側から「当然のことを言っている」と言った。
「フェン」
「俺は前からそう言っていた。あいつは曲がらない」
殿下が「フェンリル、ありがとうございます」と言った。
フェンが「礼はいらない」と言った。
◆
しばらく、二人で夏の庭を見た。
朝の光の中で、ラベンダーが静かに揺れていた。
「……エリーゼさん」
「はい」
「あなたは、俺の隣に堂々といてください」
「……はい」
「萎縮しなくていいです。誰に何を言われても」
私はその言葉を、胸の奥にしまった。
萎縮しなくていい。
一年前は、それができなかった。今は——少し、できる気がした。
◆
帰り際、殿下が空を見上げた。
「……今日は少し、雲が多いですね」
「雨になるかもしれません」
「そうですか。それでも——来ていいですか、明日」
「来てください」
「雨でも」
「雨でも」
殿下が静かに微笑んだ。
夏の風が、ようやく少し動いた。
(第71話へ続く)




