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第70話「夏の夜に」

 真夏の夜は、空気が動かない。


 窓を開けても風がなくて、薬草の香りだけが研究所に満ちていた。フェンが縁側でべったりと伸びていた。


「暑いですか」


「暑くない。だが、動きたくない」


「それは暑いのでは」


「……うるさい」



 その夜、殿下から手紙が来た。


 「明日、少し早く来ていいですか。話があります」


 私は返事を書いた。「はい、どうぞ」


 フェンが「また来るのか」と言った。


「嫌ですか」


「……嫌ではない」



 翌朝、殿下は約束より少し早く来た。


 顔が、少し疲れていた。


「……どうかしましたか」


「少し、複雑なことがありました」


 縁側に座って、お茶を出した。


「王城の一部で、俺の選択について——快く思わない声があるようです」



「……そうですか」


「あなたが元人妻だということ。家門が今は薬師であること。そういうことを、問題にする者が」


 私はしばらく、その言葉を受け取った。


「……怖いですか、と聞きますか」


「聞こうとしていました」


「怖くはないです。ただ——殿下に迷惑をかけるのが」


「迷惑ではない」と殿下が静かに言った。「俺が選んだことです。俺が対処します」



「……でも、一つだけ聞いていいですか」


「なんですか」


「後悔していませんか」


 殿下がこちらを向いた。


「していません」


「本当に」


「本当に。——そういうことを言う人間がいることは、最初からわかっていました。それでもあなたを選んだのは、俺です」



 フェンが縁側から「当然のことを言っている」と言った。


「フェン」


「俺は前からそう言っていた。あいつは曲がらない」


 殿下が「フェンリル、ありがとうございます」と言った。


 フェンが「礼はいらない」と言った。



 しばらく、二人で夏の庭を見た。


 朝の光の中で、ラベンダーが静かに揺れていた。


「……エリーゼさん」


「はい」


「あなたは、俺の隣に堂々といてください」


「……はい」


「萎縮しなくていいです。誰に何を言われても」


 私はその言葉を、胸の奥にしまった。


 萎縮しなくていい。


 一年前は、それができなかった。今は——少し、できる気がした。



 帰り際、殿下が空を見上げた。


「……今日は少し、雲が多いですね」


「雨になるかもしれません」


「そうですか。それでも——来ていいですか、明日」


「来てください」


「雨でも」


「雨でも」


 殿下が静かに微笑んだ。


 夏の風が、ようやく少し動いた。


(第71話へ続く)


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