第66話「話すこと」
翌日、殿下が来たとき、昨日の市場のことを話した。
話すつもりはなかった。でも——縁側でお茶を飲みながら、なんとなく言葉が出た。
「昨日、市場で以前の知り合いに会いました」
「どんな方ですか」
「元夫の家に出入りしていた、商家の奥方です。悪い方ではなくて」
◆
殿下が静かに聞いていた。
「……久しぶりに会って、どうでしたか」
「最初は少し、身構えました。昔の癖で」
「昔の癖」
「何か言われるかと思って。……怒鳴られるとか、責められるとか、そういうことはなかったのですが、昔は——そういう場面が多かったので」
殿下が何も言わなかった。ただ、聞いていた。
◆
「その方に、顔が変わったと言われました。以前は消えそうな顔をしていたと」
「……そうですか」
「そうだったかもしれません。自分ではわかりませんでしたが」
殿下がしばらく、庭を見た。
「……七年間、どんなふうでしたか」
私は少し考えた。
「疲れていました。ずっと。でも疲れていることに——慣れすぎて、疲れているとも思わなかった」
◆
「……あなたは、俺に前の話をあまりしませんね」
「殿下に、暗い話をしたくなかったので」
「暗くないです。あなたのことを知りたいです」
私はしばらく、その言葉を受け取った。
「……七年間、誰かに尽くすことだけを考えていました。自分が何を好きかとか、何をしたいかとか——そういうことを、考えることをやめていた気がします」
「今は」
「今は——考えます。薬草が好きで、フェンが好きで、この研究所が好きで。殿下のことも」
◆
殿下が静かに言った。
「……それを聞けて、よかったです」
「何がですか」
「あなたが、好きなものを言えるようになったこと」
私は少し、目が滲んだ。
泣くつもりはなかった。でも——その言葉が、思いがけず深いところに届いた。
「……そうですね。言えるようになりました」
◆
フェンが縁側で「うるさい」と言った。
「何も言っていませんよ」
「お前の心が、うるさい」
殿下が小さく笑った。
「フェンリルには全部聞こえていますね」
「聞こえている。だが——悪いことではない」
フェンが、珍しくそう付け加えた。
◆
夕方、殿下が帰り際に言った。
「……これからも、話してください。暗くても、重くても」
「聞いてくれますか」
「全部」
私はその言葉を、胸の奥にしまった。
全部聞いてくれる人が——今は、いる。
それが、どれだけ大きいことか。一年前の私には、想像もできなかった。
(第67話へ続く)




