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第66話「話すこと」

 翌日、殿下が来たとき、昨日の市場のことを話した。


 話すつもりはなかった。でも——縁側でお茶を飲みながら、なんとなく言葉が出た。


「昨日、市場で以前の知り合いに会いました」


「どんな方ですか」


「元夫の家に出入りしていた、商家の奥方です。悪い方ではなくて」



 殿下が静かに聞いていた。


「……久しぶりに会って、どうでしたか」


「最初は少し、身構えました。昔の癖で」


「昔の癖」


「何か言われるかと思って。……怒鳴られるとか、責められるとか、そういうことはなかったのですが、昔は——そういう場面が多かったので」


 殿下が何も言わなかった。ただ、聞いていた。



「その方に、顔が変わったと言われました。以前は消えそうな顔をしていたと」


「……そうですか」


「そうだったかもしれません。自分ではわかりませんでしたが」


 殿下がしばらく、庭を見た。


「……七年間、どんなふうでしたか」


 私は少し考えた。


「疲れていました。ずっと。でも疲れていることに——慣れすぎて、疲れているとも思わなかった」



「……あなたは、俺に前の話をあまりしませんね」


「殿下に、暗い話をしたくなかったので」


「暗くないです。あなたのことを知りたいです」


 私はしばらく、その言葉を受け取った。


「……七年間、誰かに尽くすことだけを考えていました。自分が何を好きかとか、何をしたいかとか——そういうことを、考えることをやめていた気がします」


「今は」


「今は——考えます。薬草が好きで、フェンが好きで、この研究所が好きで。殿下のことも」



 殿下が静かに言った。


「……それを聞けて、よかったです」


「何がですか」


「あなたが、好きなものを言えるようになったこと」


 私は少し、目が滲んだ。


 泣くつもりはなかった。でも——その言葉が、思いがけず深いところに届いた。


「……そうですね。言えるようになりました」



 フェンが縁側で「うるさい」と言った。


「何も言っていませんよ」


「お前の心が、うるさい」


 殿下が小さく笑った。


「フェンリルには全部聞こえていますね」


「聞こえている。だが——悪いことではない」


 フェンが、珍しくそう付け加えた。



 夕方、殿下が帰り際に言った。


「……これからも、話してください。暗くても、重くても」


「聞いてくれますか」


「全部」


 私はその言葉を、胸の奥にしまった。


 全部聞いてくれる人が——今は、いる。


 それが、どれだけ大きいことか。一年前の私には、想像もできなかった。


(第67話へ続く)


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