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第65話「市場で」

 春の市場は、いつも人が多い。


 薬草の補充のために来ていた私は、フェンを連れて露店を回っていた。フェンの白い毛が人混みの中で目立って、通りすがりの子どもが指差すたびに、フェンが「犬ではない」と言った。


「毎回言いますね」


「毎回言う必要がある」



 乾燥ハーブを選んでいると、後ろから声がかかった。


「……エリーゼ様?」


 振り返ると、見覚えのある顔があった。かつて、ウィレムの家に出入りしていた商家の奥方——マリアンさんだった。五十がらみの、人のよさそうな顔をした女性だった。


「……マリアンさん」


「やっぱり! エリーゼ様だわ。どうしてこちらに」



 少し、身構えた。


 ウィレムの周辺の人間と、会うとは思っていなかった。何を言われるか——一瞬だけ、昔の癖で緊張した。


 でも、マリアンさんの顔に、敵意はなかった。


「聞いていましたよ。離縁されたって。大変でしたね、本当に」


「……ありがとうございます。でも、もう大丈夫です」


「そうみたい! 顔がぜんぜん違う。以前より、ずっと明るくなって」



 そうですか、と私は言った。


「今は薬師をしているんですか?」


「はい。研究所を開いています」


「あら、すごい。一人で?」


「弟子が一人います。それと——」


 フェンが隣に来た。マリアンさんが小さく悲鳴を上げた。


「……こ、これは」


「聖獣のフェンリルです。私の伴侶です」



 マリアンさんがしばらく、フェンをじっと見た。


「……本物の聖獣?」


「本物だ」とフェンが言った。


 マリアンさんが「しゃべった!」と言った。


「言葉を持つ聖獣なので」


「……すごいこと。本当に、エリーゼ様はすごいことになっているのね」



 少し話してから、マリアンさんが言った。


「ウィレム様のことは……まあ、いろいろあるみたいですが」


「それは、私には関係のないことです」


 マリアンさんが少し目を丸くした。それから、ゆっくりと頷いた。


「……そうですね。あなたにはもう関係ない。本当によかった」



 別れ際、マリアンさんが言った。


「元気そうで、安心しました。以前は——なんというか、消えそうな顔をしていたから」


「そうでしたか」


「今は違う。ちゃんと、生きている顔をしています」


 私はその言葉を、静かに受け取った。


「……ありがとうございます」



 帰り道、フェンが言った。


「……知り合いか」


「以前、少し縁があった方です」


「悪い人間ではないな」


「そうですね」


 フェンがぽつりと言った。


「消えそうな顔、というのは——確かにそうだった」


「フェンも、そう見えていましたか」


「最初にお前を見たとき、俺が側にいなければならないと思った。それだけだ」


 春の市場の喧騒が、遠くから聞こえていた。


 あの頃と今は——同じ自分でも、別の人間みたいだった。


(第66話へ続く)


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