第65話「市場で」
春の市場は、いつも人が多い。
薬草の補充のために来ていた私は、フェンを連れて露店を回っていた。フェンの白い毛が人混みの中で目立って、通りすがりの子どもが指差すたびに、フェンが「犬ではない」と言った。
「毎回言いますね」
「毎回言う必要がある」
◆
乾燥ハーブを選んでいると、後ろから声がかかった。
「……エリーゼ様?」
振り返ると、見覚えのある顔があった。かつて、ウィレムの家に出入りしていた商家の奥方——マリアンさんだった。五十がらみの、人のよさそうな顔をした女性だった。
「……マリアンさん」
「やっぱり! エリーゼ様だわ。どうしてこちらに」
◆
少し、身構えた。
ウィレムの周辺の人間と、会うとは思っていなかった。何を言われるか——一瞬だけ、昔の癖で緊張した。
でも、マリアンさんの顔に、敵意はなかった。
「聞いていましたよ。離縁されたって。大変でしたね、本当に」
「……ありがとうございます。でも、もう大丈夫です」
「そうみたい! 顔がぜんぜん違う。以前より、ずっと明るくなって」
◆
そうですか、と私は言った。
「今は薬師をしているんですか?」
「はい。研究所を開いています」
「あら、すごい。一人で?」
「弟子が一人います。それと——」
フェンが隣に来た。マリアンさんが小さく悲鳴を上げた。
「……こ、これは」
「聖獣のフェンリルです。私の伴侶です」
◆
マリアンさんがしばらく、フェンをじっと見た。
「……本物の聖獣?」
「本物だ」とフェンが言った。
マリアンさんが「しゃべった!」と言った。
「言葉を持つ聖獣なので」
「……すごいこと。本当に、エリーゼ様はすごいことになっているのね」
◆
少し話してから、マリアンさんが言った。
「ウィレム様のことは……まあ、いろいろあるみたいですが」
「それは、私には関係のないことです」
マリアンさんが少し目を丸くした。それから、ゆっくりと頷いた。
「……そうですね。あなたにはもう関係ない。本当によかった」
◆
別れ際、マリアンさんが言った。
「元気そうで、安心しました。以前は——なんというか、消えそうな顔をしていたから」
「そうでしたか」
「今は違う。ちゃんと、生きている顔をしています」
私はその言葉を、静かに受け取った。
「……ありがとうございます」
◆
帰り道、フェンが言った。
「……知り合いか」
「以前、少し縁があった方です」
「悪い人間ではないな」
「そうですね」
フェンがぽつりと言った。
「消えそうな顔、というのは——確かにそうだった」
「フェンも、そう見えていましたか」
「最初にお前を見たとき、俺が側にいなければならないと思った。それだけだ」
春の市場の喧騒が、遠くから聞こえていた。
あの頃と今は——同じ自分でも、別の人間みたいだった。
(第66話へ続く)




