第64話「一年」
気づいたら、一年が経っていた。
離縁状を受け取ったあの朝から、ちょうど一年。研究所に来て、フェンに出会って、薬師として働き始めて——気づいたら、春がまた来ていた。
ラベンダーが、去年より少し大きくなっていた。
◆
「……フェン」
「なんだ」
「今日で、ここに来て一年です」
フェンが縁側からこちらを向いた。
「そうか」
「早かったですか」
「……長かった気もするし、短かった気もする」
「私もそうです」
フェンが少し間を置いた。
「お前は——変わった」
「そうですか」
「最初は、声が薄かった。今は、ちゃんと声がある」
◆
声が薄かった。
その言葉が、静かに胸に刺さった。
そうだったかもしれない。あの頃の私は——生きていたけれど、どこかで止まっていた。泣けなかったし、怒れなかったし、笑うことも少なかった。
「……今は、声がありますか」
「ある。よく通る声だ」
「フェンのおかげです」
「俺だけではない」
「殿下のおかげでもあります」
「……ナーシャのおかげでもある」
私は少し、笑った。
「そうですね。みんなのおかげです」
◆
昼前に、殿下から手紙が来た。
「今日で、あなたに会って一年近くになります。最初に研究所を訪ねた日を覚えていますか」
私は返事を書いた。「覚えています。フェンが殿下を警戒していました」
しばらくして返事が来た。「今も警戒されています」
フェンが「聞こえている」と言った。
◆
午後、殿下が来た。
手に、小さな鉢植えを持っていた。薄紫の小さな花が咲いていた。
「ラベンダーです。今年用に、王城の庭師に頼みました」
「……ありがとうございます」
「去年、あなたが庭に植えていたのを見て」
「覚えていてくださったのですか」
「覚えています。あなたのことは、だいたい覚えています」
◆
鉢植えを庭に置いて、三人で眺めた。
去年植えたラベンダーと、今日来たラベンダーが、並んで春の風に揺れていた。
「……来年も、増えますか」と殿下が言った。
「殿下が持ってくれば」
「持ってきます」
「毎年?」
「毎年」
フェンが「うるさい」と言った。
でもその日、フェンはずっとラベンダーの傍に座っていた。
◆
夕方、一人になってから、私は日記を開いた。
一年前、何も書けなかったページがある。あの日は——言葉が出なかった。
今日は、書けた。
「一年経った。思っていたより、ずっといい場所にいる」
それだけ書いて、閉じた。
春の夜が、静かに研究所を包んでいた。
(第65話へ続く)




