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第64話「一年」

 気づいたら、一年が経っていた。


 離縁状を受け取ったあの朝から、ちょうど一年。研究所に来て、フェンに出会って、薬師として働き始めて——気づいたら、春がまた来ていた。


 ラベンダーが、去年より少し大きくなっていた。



「……フェン」


「なんだ」


「今日で、ここに来て一年です」


 フェンが縁側からこちらを向いた。


「そうか」


「早かったですか」


「……長かった気もするし、短かった気もする」


「私もそうです」


 フェンが少し間を置いた。


「お前は——変わった」


「そうですか」


「最初は、声が薄かった。今は、ちゃんと声がある」



 声が薄かった。


 その言葉が、静かに胸に刺さった。


 そうだったかもしれない。あの頃の私は——生きていたけれど、どこかで止まっていた。泣けなかったし、怒れなかったし、笑うことも少なかった。


「……今は、声がありますか」


「ある。よく通る声だ」


「フェンのおかげです」


「俺だけではない」


「殿下のおかげでもあります」


「……ナーシャのおかげでもある」


 私は少し、笑った。


「そうですね。みんなのおかげです」



 昼前に、殿下から手紙が来た。


 「今日で、あなたに会って一年近くになります。最初に研究所を訪ねた日を覚えていますか」


 私は返事を書いた。「覚えています。フェンが殿下を警戒していました」


 しばらくして返事が来た。「今も警戒されています」


 フェンが「聞こえている」と言った。



 午後、殿下が来た。


 手に、小さな鉢植えを持っていた。薄紫の小さな花が咲いていた。


「ラベンダーです。今年用に、王城の庭師に頼みました」


「……ありがとうございます」


「去年、あなたが庭に植えていたのを見て」


「覚えていてくださったのですか」


「覚えています。あなたのことは、だいたい覚えています」



 鉢植えを庭に置いて、三人で眺めた。


 去年植えたラベンダーと、今日来たラベンダーが、並んで春の風に揺れていた。


「……来年も、増えますか」と殿下が言った。


「殿下が持ってくれば」


「持ってきます」


「毎年?」


「毎年」


 フェンが「うるさい」と言った。


 でもその日、フェンはずっとラベンダーの傍に座っていた。



 夕方、一人になってから、私は日記を開いた。


 一年前、何も書けなかったページがある。あの日は——言葉が出なかった。


 今日は、書けた。


 「一年経った。思っていたより、ずっといい場所にいる」


 それだけ書いて、閉じた。


 春の夜が、静かに研究所を包んでいた。


(第65話へ続く)


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