第60話「先のこと」
春が来た。
庭のラベンダーが芽吹き始めた。去年、私が植えた苗が根をしっかり張って、小さな緑の葉を広げていた。フェンがそれをじっと見ていた。
「……育ちましたね」
「そうだな」
「去年の春は、まだここに来て間もない頃でした」
「そうだな」
フェンが静かに言った。「随分、変わった」
◆
その日の昼過ぎに、殿下が来た。
外套を脱ぐと、少し軽い格好をしていた。春の陽気に合わせて——そういう気遣いが、この人らしかった。
「……春になりましたね」
「そうですね」
「庭が変わりました」
「ラベンダーが芽吹きました。去年植えたものが」
「見ていいですか」
三人で庭に降りた。殿下がラベンダーの前にしゃがんで、小さな葉をそっと見た。
「……ちゃんと育っていますね」
「根が強い植物なので」
「あなたが育てると、よく育つ気がします」
◆
縁側に戻って、お茶を飲んだ。
殿下がしばらく、庭を見ていた。それから静かに言った。
「……以前、正式な謁見が終わったら先のことを話す、と言いました」
「覚えています」
「今日、話してもいいですか」
私は頷いた。
◆
「……俺は、あなたにずっと傍にいてほしいと思っています」
殿下がまっすぐ言った。
「ずっと、とは」
「この先も。来年も、再来年も——できれば、ずっと」
私はその言葉を、ゆっくりと受け取った。
「……王子妃、ということですか」
「そうなります。手順はまだかかります。ただ——あなたの意思を、先に聞きたかった」
◆
王子妃。
一年前には、想像もしなかった言葉だった。離縁状を受け取って、泣けないまま家を出た日のことを、ふと思い出した。
あの日の私に——今日のことを、教えてあげたかった。
「……エリーゼさん」
「はい」
「考えるのに時間が必要ですか」
◆
私は少し笑った。
「いいえ」
「……今、答えてくれるのですか」
「はい。——はい、と言います」
殿下がしばらく、黙った。それから「……ありがとうございます」と静かに言った。
「こちらこそ」
「手順にはしばらくかかります。それでも」
「待ちます。待てます」
◆
フェンが縁側で「やかましい」と言った。
「聞こえていましたか」
「全部」
「感想は」
フェンが少し間を置いた。
「……お前たちは、ちゃんとしている」
それが——フェンにしては、最大級の言葉だと思った。
殿下も同じように思ったらしく、「フェンリル、ありがとうございます」と言った。
フェンが「礼はいらない」と言った。でもその日、フェンはずっと、庭のラベンダーのそばに座っていた。
◆
夕暮れ時、殿下が帰り際に言った。
「……来年の春も、ここでお茶を飲みたいです」
「飲みましょう」
「再来年も」
「飲みましょう」
「ずっと」
私は迷わず答えた。
「ずっと、飲みましょう」
春の風が、庭のラベンダーをやわらかく揺らしていた。
去年の春より、今年の春の方が——ずっと、温かかった。
(第61話へ続く)




