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第60話「先のこと」

 春が来た。


 庭のラベンダーが芽吹き始めた。去年、私が植えた苗が根をしっかり張って、小さな緑の葉を広げていた。フェンがそれをじっと見ていた。


「……育ちましたね」


「そうだな」


「去年の春は、まだここに来て間もない頃でした」


「そうだな」


 フェンが静かに言った。「随分、変わった」



 その日の昼過ぎに、殿下が来た。


 外套を脱ぐと、少し軽い格好をしていた。春の陽気に合わせて——そういう気遣いが、この人らしかった。


「……春になりましたね」


「そうですね」


「庭が変わりました」


「ラベンダーが芽吹きました。去年植えたものが」


「見ていいですか」


 三人で庭に降りた。殿下がラベンダーの前にしゃがんで、小さな葉をそっと見た。


「……ちゃんと育っていますね」


「根が強い植物なので」


「あなたが育てると、よく育つ気がします」



 縁側に戻って、お茶を飲んだ。


 殿下がしばらく、庭を見ていた。それから静かに言った。


「……以前、正式な謁見が終わったら先のことを話す、と言いました」


「覚えています」


「今日、話してもいいですか」


 私は頷いた。



「……俺は、あなたにずっと傍にいてほしいと思っています」


 殿下がまっすぐ言った。


「ずっと、とは」


「この先も。来年も、再来年も——できれば、ずっと」


 私はその言葉を、ゆっくりと受け取った。


「……王子妃、ということですか」


「そうなります。手順はまだかかります。ただ——あなたの意思を、先に聞きたかった」



 王子妃。


 一年前には、想像もしなかった言葉だった。離縁状を受け取って、泣けないまま家を出た日のことを、ふと思い出した。


 あの日の私に——今日のことを、教えてあげたかった。


「……エリーゼさん」


「はい」


「考えるのに時間が必要ですか」



 私は少し笑った。


「いいえ」


「……今、答えてくれるのですか」


「はい。——はい、と言います」


 殿下がしばらく、黙った。それから「……ありがとうございます」と静かに言った。


「こちらこそ」


「手順にはしばらくかかります。それでも」


「待ちます。待てます」



 フェンが縁側で「やかましい」と言った。


「聞こえていましたか」


「全部」


「感想は」


 フェンが少し間を置いた。


「……お前たちは、ちゃんとしている」


 それが——フェンにしては、最大級の言葉だと思った。


 殿下も同じように思ったらしく、「フェンリル、ありがとうございます」と言った。


 フェンが「礼はいらない」と言った。でもその日、フェンはずっと、庭のラベンダーのそばに座っていた。



 夕暮れ時、殿下が帰り際に言った。


「……来年の春も、ここでお茶を飲みたいです」


「飲みましょう」


「再来年も」


「飲みましょう」


「ずっと」


 私は迷わず答えた。


「ずっと、飲みましょう」


 春の風が、庭のラベンダーをやわらかく揺らしていた。


 去年の春より、今年の春の方が——ずっと、温かかった。


(第61話へ続く)


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