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第55話「新しい年」

 年が明けた。


 特別なことは何もなかった。夜明け前に目が覚めて、縁側に出て、空が白んでいくのを見ていた。フェンが隣に来て、黙って並んだ。


 それだけだった。でも——十分だった。



「……明けましておめでとうございます、フェン」


「ああ」


「今年もよろしくお願いします」


「毎年言うのか」


「言います」


 フェンが小さく鼻息をついた。


「……よろしく頼む」


 それが、今年最初の言葉だった。



 昼前に、殿下から手紙が来た。


 「明けましておめでとうございます。午後に伺ってもいいですか」


 私はすぐに返した。「おめでとうございます。どうぞ」


 ナーシャは今日は休みで、研究所は静かだった。冬の午前の光が、白い庭をやわらかく照らしていた。



 殿下は昼過ぎに来た。


 珍しく、少し正装に近い格好をしていた。いつもの外套より上等な生地で、襟元に細かい刺繍があった。


「……今日は少し、違いますね」


「新年なので」


「わざわざ」


「あなたに会いに来るので」


 私は少しの間、言葉を受け取った。


「……ありがとうございます」



 三人でお茶を飲んだ。


 殿下が「今年の抱負はありますか」と聞いた。


「……抱負」


「何かやりたいこと、とか」


 私はしばらく考えた。


「新しい薬草を一つ、ちゃんと使えるようになりたいです。あとは——今ある大切なものを、丁寧に続けること」


「大切なもの、とは」


「フェンと、研究所と、殿下と」


 殿下がしばらく、黙った。


「……順番は」


「フェンが一番先に言っただけです」


 フェンが「当然だ」と言った。



「殿下は、抱負がありますか」


「あります」


「どんな」


 殿下がまっすぐ、私を見た。


「あなたのそばに、もっとちゃんといられる人間になること」


 私は何も言えなかった。


「……去年より、少しでも」


「今でも十分です」


「そうですか」


「はい」


 殿下が静かに、やわらかく笑った。



 夕方、帰り際に殿下が言った。


「……今年は、どんな年になりますか」


「わかりません。でも」


「でも?」


 私は少し考えて、答えた。


「去年より、もう少し——笑っていると思います」


 殿下がその言葉を受け取って、静かに頷いた。


「俺も、そうであってほしい」



 殿下が帰ったあと、フェンが「笑っているな、今も」と言った。


「そうですか」


「そうだ」


 私は少し、自分の顔を確かめた。確かに、口元が緩んでいた。


「……フェンのおかげです」


「俺だけではない」


「そうですね。みんなのおかげです」


 新しい年の空が、澄んで高く、どこまでも広がっていた。


(第56話へ続く)


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