第55話「新しい年」
年が明けた。
特別なことは何もなかった。夜明け前に目が覚めて、縁側に出て、空が白んでいくのを見ていた。フェンが隣に来て、黙って並んだ。
それだけだった。でも——十分だった。
◆
「……明けましておめでとうございます、フェン」
「ああ」
「今年もよろしくお願いします」
「毎年言うのか」
「言います」
フェンが小さく鼻息をついた。
「……よろしく頼む」
それが、今年最初の言葉だった。
◆
昼前に、殿下から手紙が来た。
「明けましておめでとうございます。午後に伺ってもいいですか」
私はすぐに返した。「おめでとうございます。どうぞ」
ナーシャは今日は休みで、研究所は静かだった。冬の午前の光が、白い庭をやわらかく照らしていた。
◆
殿下は昼過ぎに来た。
珍しく、少し正装に近い格好をしていた。いつもの外套より上等な生地で、襟元に細かい刺繍があった。
「……今日は少し、違いますね」
「新年なので」
「わざわざ」
「あなたに会いに来るので」
私は少しの間、言葉を受け取った。
「……ありがとうございます」
◆
三人でお茶を飲んだ。
殿下が「今年の抱負はありますか」と聞いた。
「……抱負」
「何かやりたいこと、とか」
私はしばらく考えた。
「新しい薬草を一つ、ちゃんと使えるようになりたいです。あとは——今ある大切なものを、丁寧に続けること」
「大切なもの、とは」
「フェンと、研究所と、殿下と」
殿下がしばらく、黙った。
「……順番は」
「フェンが一番先に言っただけです」
フェンが「当然だ」と言った。
◆
「殿下は、抱負がありますか」
「あります」
「どんな」
殿下がまっすぐ、私を見た。
「あなたのそばに、もっとちゃんといられる人間になること」
私は何も言えなかった。
「……去年より、少しでも」
「今でも十分です」
「そうですか」
「はい」
殿下が静かに、やわらかく笑った。
◆
夕方、帰り際に殿下が言った。
「……今年は、どんな年になりますか」
「わかりません。でも」
「でも?」
私は少し考えて、答えた。
「去年より、もう少し——笑っていると思います」
殿下がその言葉を受け取って、静かに頷いた。
「俺も、そうであってほしい」
◆
殿下が帰ったあと、フェンが「笑っているな、今も」と言った。
「そうですか」
「そうだ」
私は少し、自分の顔を確かめた。確かに、口元が緩んでいた。
「……フェンのおかげです」
「俺だけではない」
「そうですね。みんなのおかげです」
新しい年の空が、澄んで高く、どこまでも広がっていた。
(第56話へ続く)




