第54話「年の瀬」
年の瀬が近くなると、町の空気が少し変わる。
市場に行くと、保存食や乾燥果実を買い込む人が増えて、どこか慌ただしい。研究所にも、年末に向けて薬を多めに買っていく患者が来た。風邪薬、腹薬、冷えに効くもの。
ナーシャが「年末って忙しいんですね」と言った。
「来年の分を備えておく人が多いので」
「エリーゼ様は、年末年始は何かしますか」
私はしばらく考えた。
「……去年までは、夫の家でいろいろ準備をしていました。今年は——初めて、自分のための年末です」
◆
ナーシャが少し、黙った。
「……どんな気持ちですか」
「不思議な気持ちです。何をしていいかわからなくて、でも——悪くない」
「そうですよね」とナーシャが言った。「自分のために、好きなことをしていいんですよね」
私は頷いた。
そうだ。今年は、自分のために年を越せる。
◆
その日の夕方、殿下が来た。
手に小さな包みを持っていた。
「年末の贈り物です。少し早いですが」
受け取ると、柔らかい布に包まれていた。開けると、小さな陶器の薬壺が三つ、並んでいた。蓋に細かい草花の模様が彫ってあった。
「……きれいですね」
「王城の陶工に頼みました。薬草を入れるものと聞いて、こういう模様にしてもらいました」
「……使うのがもったいないくらいです」
「使ってください。そのために作ったので」
◆
縁側でお茶を飲みながら、殿下が静かに言った。
「……今年は、どんな年でしたか」
私はしばらく考えた。
「長い年でした。いろんなことがありすぎて」
「悪い年でしたか」
「いいえ」と私はすぐに答えた。「——人生で、一番いい年だったと思います」
殿下がこちらを見た。
「そうですか」
「はい。フェンに会って、仕事を始めて、殿下に出会って」
◆
フェンが縁側で「俺が一番先だ」と言った。
「そうですね、フェンが一番先です」
「当然だ」
殿下が「俺は三番目ですか」と言った。
「順番の問題ではないですが……」
「一番大事なのは」
「全員、大事です」
フェンが「うまくまとめた」と言った。
殿下が「そうですね」と言った。少し、残念そうだったかもしれない。
◆
「……でも」と私は続けた。
「はい」
「殿下がいなかったら、今年は全然違う年になっていた、とは思います」
殿下がしばらく、黙った。
「……俺も、そうです。あなたがいなかったら」
「いなかったら?」
「今年が、こんなに——穏やかではなかった」
◆
空が暗くなってきた。星が一つ、二つと出始めた。
殿下が「来年も、よろしくお願いします」と言った。
私は少し驚いた。そんなふうに言われたのが、久しぶりだった。
「……こちらこそ」
「来年もここに来ていいですか」
「来てください。毎年」
殿下が静かに「はい」と言った。
フェンが「うるさい」と言った。
でも今夜は、誰も笑いを堪えなかった。
(第55話へ続く)




