第50話「言葉が、整いました」
殿下が来たのは、朝の薬草仕事が終わった頃だった。
約束の時刻より少し早かった。それが——何だか、らしかった。
門のところで殿下を見たとき、今日は手に何も持っていないことに気づいた。いつも何かを持ってくる人が、今日は手ぶらだった。
◆
縁側でお茶を出した。殿下はしばらく、黙ってそれを飲んだ。
フェンが庭の方を向いて伸びていた。こちらに背を向けている。珍しかった。
「……フェン、向こうを向いていますね」
「うるさい」
殿下が小さく、でも確かに、笑った。
◆
しばらくして、殿下が茶碗を置いた。
背筋が少し伸びた。それを見て、私の胸が静かに高鳴った。
「……エリーゼさん」
「はい」
「言葉が、整いました」
私は何も言わずに、続きを待った。
殿下がまっすぐ、私を見た。迷いのない目だった。
◆
「俺は——あなたのことを、大切に思っています」
静かな声だった。でも、はっきりしていた。
「最初は、聖獣の伴侶として気にかけていました。でも今は——そういうことではない。ただ、あなたのそばにいたい。あなたの笑う顔を見たい。あなたが悲しいときに、隣にいたい」
殿下が一度、息をついた。
「……俺と、いてくれますか」
◆
私はその言葉を、胸の奥まで受け取った。
七年間、誰かのために尽くして、最後に捨てられた。もう誰も信じないと思った。誰かに選ばれることなど、二度とないと思っていた。
でも——今、この人が、まっすぐに私を見ている。
迷いなく。言い訳なく。ただ、一言で。
◆
「……はい」
私は答えた。声が、少し震えた。
「俺と、いてくれますか、という問いへの答えですか」
「はい」
「……確かに聞きました」
「はい」
殿下がしばらく、黙った。それから、ゆっくりと息を吐いた。ほっとしたような、長い息だった。
「……ありがとうございます」
「こちらこそ」
◆
気づいたら、目が滲んでいた。
泣くつもりはなかった。涙は、もう出ないと思っていた。あの七年間で、全部流し切ったと思っていた。
でも——これは、悲しい涙ではなかった。
殿下が静かに「泣いていますか」と言った。
「……少し」
「俺のせいですか」
「はい」
「……すみません」
「謝らないでください。嬉しくて、泣いています」
◆
殿下がそっと手を伸ばした。私の手の上に、そっと重ねた。
温かかった。大きかった。
ただ、それだけだった。でも——それだけで、十分だった。
フェンが庭の方を向いたまま、ぽつりと言った。
「……やっと終わったか」
「フェン」
「長かった」
「そんなに長くなかったです」
「長かった」
殿下が「フェンリル、ありがとうございます」と言った。
フェンが「俺に礼を言うな」と言った。でも——その声は、今日一番穏やかだった。
◆
秋の光が、庭を静かに照らしていた。
菊が咲いていた。ラベンダーの葉が風に揺れていた。フェンの白い毛が、日差しの中でやわらかく光っていた。
私はここに来た日のことを思い出した。
何も持たずに、泣けないままで、ただ生き直そうとしていた、あの日のことを。
あの日の私に——今日のことを、教えてあげたかった。
大丈夫だよ、と。
ちゃんと、春が来るよ、と。
(第51話へ続く)




