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第50話「言葉が、整いました」

 殿下が来たのは、朝の薬草仕事が終わった頃だった。


 約束の時刻より少し早かった。それが——何だか、らしかった。


 門のところで殿下を見たとき、今日は手に何も持っていないことに気づいた。いつも何かを持ってくる人が、今日は手ぶらだった。



 縁側でお茶を出した。殿下はしばらく、黙ってそれを飲んだ。


 フェンが庭の方を向いて伸びていた。こちらに背を向けている。珍しかった。


「……フェン、向こうを向いていますね」


「うるさい」


 殿下が小さく、でも確かに、笑った。



 しばらくして、殿下が茶碗を置いた。


 背筋が少し伸びた。それを見て、私の胸が静かに高鳴った。


「……エリーゼさん」


「はい」


「言葉が、整いました」


 私は何も言わずに、続きを待った。


 殿下がまっすぐ、私を見た。迷いのない目だった。



「俺は——あなたのことを、大切に思っています」


 静かな声だった。でも、はっきりしていた。


「最初は、聖獣の伴侶として気にかけていました。でも今は——そういうことではない。ただ、あなたのそばにいたい。あなたの笑う顔を見たい。あなたが悲しいときに、隣にいたい」


 殿下が一度、息をついた。


「……俺と、いてくれますか」



 私はその言葉を、胸の奥まで受け取った。


 七年間、誰かのために尽くして、最後に捨てられた。もう誰も信じないと思った。誰かに選ばれることなど、二度とないと思っていた。


 でも——今、この人が、まっすぐに私を見ている。


 迷いなく。言い訳なく。ただ、一言で。



「……はい」


 私は答えた。声が、少し震えた。


「俺と、いてくれますか、という問いへの答えですか」


「はい」


「……確かに聞きました」


「はい」


 殿下がしばらく、黙った。それから、ゆっくりと息を吐いた。ほっとしたような、長い息だった。


「……ありがとうございます」


「こちらこそ」



 気づいたら、目が滲んでいた。


 泣くつもりはなかった。涙は、もう出ないと思っていた。あの七年間で、全部流し切ったと思っていた。


 でも——これは、悲しい涙ではなかった。


 殿下が静かに「泣いていますか」と言った。


「……少し」


「俺のせいですか」


「はい」


「……すみません」


「謝らないでください。嬉しくて、泣いています」



 殿下がそっと手を伸ばした。私の手の上に、そっと重ねた。


 温かかった。大きかった。


 ただ、それだけだった。でも——それだけで、十分だった。


 フェンが庭の方を向いたまま、ぽつりと言った。


「……やっと終わったか」


「フェン」


「長かった」


「そんなに長くなかったです」


「長かった」


 殿下が「フェンリル、ありがとうございます」と言った。


 フェンが「俺に礼を言うな」と言った。でも——その声は、今日一番穏やかだった。



 秋の光が、庭を静かに照らしていた。


 菊が咲いていた。ラベンダーの葉が風に揺れていた。フェンの白い毛が、日差しの中でやわらかく光っていた。


 私はここに来た日のことを思い出した。


 何も持たずに、泣けないままで、ただ生き直そうとしていた、あの日のことを。


 あの日の私に——今日のことを、教えてあげたかった。


 大丈夫だよ、と。


 ちゃんと、春が来るよ、と。


(第51話へ続く)


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