第49話「前夜」
陛下との謁見から三日が経った。
研究所はいつも通りだった。ナーシャが薬草を仕分けて、私が記録をつけて、フェンが縁側で伸びている。何も変わっていなかった。
ただ——殿下からの手紙が、毎日来るようになっていた。
◆
最初の日は「昨日は疲れませんでしたか」。
次の日は「庭の菊が咲き始めています。見せたいと思っています」。
三日目の昨日は「あなたが淹れてくれたお茶のことを、時々思い出します」。
どれも短かった。でもどれも、読むたびに少し胸が温かくなった。
ナーシャが「最近よく手紙が来ますね」と言った。
「そうですね」
「……もしかして殿下ですか」
「仕事の続きをしてください」
「はーい」
◆
そして今日の夕方、一通の手紙が届いた。
「明日、伺ってもいいですか。少し、話があります」
それだけだった。
私はその手紙を、三度読んだ。
少し、話がある。
その言葉の意味を——わからないほど鈍くはなかった。
◆
「フェン」
「読んだ」
「……明日、殿下が来ます」
「知っている」
「話があるそうです」
「知っている」
フェンが目を細めて、縁側の外を見た。秋の夕暮れが、庭をゆっくりと染めていた。
「……怖いですか、と聞こうと思っていましたが」
「怖くない」
「そうですか」
「お前こそ、どうだ」
◆
私はしばらく考えた。
怖いか。
「……怖くはありません。ただ——少し、緊張しています」
「それは怖いのとは違うか」
「違います。嬉しいから、緊張しているんだと思います」
フェンがぽつりと言った。
「そうか」
それだけだった。でも、その声がいつもより少し柔らかかった。
◆
夜、薬草の記録を書き終えてから、縁側に出た。
星が出ていた。秋の空は高くて、星がくっきりと見えた。
フェンが隣に来て、黙って座った。
「……フェン、あなたは百年以上、一人でしたね」
「そうだ」
「それでも——誰かと出会うことを、諦めなかったのですか」
フェンが少し間を置いた。
「諦めていた」
「そうですか」
「ただ——お前に会って、諦めていたことに気づいた」
◆
私はその言葉を、星を見ながら受け取った。
「……私も、そうかもしれません。また誰かを信じることを、どこかで諦めていた気がします」
「今は」
「今は——信じています。殿下のことも、フェンのことも」
フェンが頭を私の肩に押しつけた。重かった。温かかった。
「明日、ちゃんと聞け」
「はい」
「逃げるなよ」
「逃げません」
◆
しばらくして、フェンが言った。
「……お前が笑うようになった。それだけで、俺は十分だ」
「フェン」
「うるさい」
でも、フェンはそのまま離れなかった。
明日が来る。
その言葉が、今の私には——少しも恐ろしくなかった。
(第50話へ続く)




