第45話「雨の日」
秋の雨が一日中降り続けた。
ナーシャは朝から「今日は来られません、すみません」と伝言を寄越してきた。殿下からも「今日は王城を離れられません」と手紙が来た。
結局、一日中フェンと二人きりだった。
◆
研究所の仕事は雨の日でもある。乾燥中の薬草の状態を確認して、湿気で傷んでいないか確かめる。記録をつける。次の配合の準備をする。
フェンが縁側の内側——廊下のような場所に伏せて、雨を眺めていた。
「……雨は好きですか」
「嫌いではない」
「静かですね」
「そうだ」
私も隣に座って、雨を見た。庭のラベンダーが雨に揺れていた。もう花の時期は終わっていたが、緑の葉が雨に濡れて光っていた。
◆
しばらくして、フェンがぽつりと言った。
「……以前の伴侶のことを、聞くか」
私は少し驚いた。フェンが自分からその話を持ち出したのは、初めてだった。
「聞いてもいいですか」
「いいから言っている」
「……どんな方でしたか」
フェンがしばらく、雨を見ていた。
「老いた女性だった。薬師ではなかったが、山で薬草を育てていた。俺に気づいたのは、彼女が四十を過ぎた頃だった」
「気づいた、というのは」
「聖獣の存在に、だ。森の奥に俺がいることを、彼女は感じ取った。恐れずに近づいてきた」
◆
「……どんな人でしたか」
「よく笑う人だった。俺が何を言っても、笑って流した。うるさいと言っても、笑った。俺がいなくても、一人でよく笑っていた」
「エリーゼ様と違いますね」と私が言った。
「お前は笑いを堪える」
「そうですか」
「笑う顔は見たことがある。でも声に出して笑うのは少ない」
私は少し考えた。確かに、そうかもしれなかった。
「……あの七年間で、笑い方を忘れたのかもしれません」
「今、取り戻している」
「そうでしょうか」
「そうだ」
◆
「彼女が逝ったとき、百年間一人だったと言っていましたね」
「そうだ」
「寂しくなかったのですか、本当に」
フェンがしばらく、黙った。
「……最初は何も感じなかった。何百年も生きると、喪失の感覚が変わる。水が流れるように、ただ時間が過ぎた」
「それが変わったのはいつですか」
「お前と会ってからだ」
私は何も言えなかった。
「静かだったところに、音が戻ってきた。それが——久しぶりだった」
◆
雨の音が続いていた。
私はフェンの毛に、そっと頬を近づけた。温かかった。雨の湿気の中でも、フェンはいつも温かかった。
「……フェン」
「なんだ」
「私と出会ってよかったですか」
フェンが少しの間、黙った。
「よかった」
それだけだった。でも——それだけで、十分だった。
◆
夕方、雨が少し弱まった頃、殿下から短い手紙が来た。
「今日は会えなくてすみません。明日、行っていいですか」
私は「はい」と返した。
フェンが「また来るのか」と言った。
「嫌ですか」
「……嫌ではない」
雨が、庭の石畳を静かに叩いていた。
(第46話へ続く)




