第43話「夏の終わりに」
アルヴィン殿下の話があってから数日後、カイル殿下が研究所に来た。
今日は珍しく、何も手土産を持っていなかった。
「……何もないのですね」
「忘れました」
「珍しい」
「少し、急いで来たので」
私はその言葉の意味を、少し考えた。急いで来た。
「……心配していたのですか」
「していました」
殿下が静かに言った。隠す様子がなかった。
◆
その日はナーシャが早上がりで、研究所には私とフェンと殿下の三人だった。
殿下が「何か手伝えることはありますか」と言ったので、薬草の仕分けを頼んだ。
殿下は不慣れな手つきで、でも丁寧に薬草を分けていった。
「……これはカモミールですか」
「そうです。匂いを嗅いでみてください」
殿下が一束を鼻に近づけた。それから少し目を細めた。
「……甘いですね」
「リンゴに似た香りがします。気持ちを落ち着かせる効果があります」
「あなたの研究所は、いつもこの匂いがしていますね」
「そうですか」
「来るたびに、少し楽になる気がします」
◆
夕方近くまで、並んで作業をした。
殿下は口数が少なかったが、それが苦にならなかった。黙っていても、傍にいる人だった。
フェンが縁側で伸びたまま、時々こちらを見た。
「……フェン、邪魔しないのですか」
私が小声で言うと、フェンが「今日は邪魔しない」と言った。
「なぜですか」
「疲れているから、二人とも」
確かに、アルヴィン殿下とのことで、少し消耗していたかもしれない。
◆
作業が終わって、縁側でお茶を飲んだ。
夏の終わりの空が、うっすらとオレンジに染まり始めていた。
「……エリーゼさん」
「はい」
「兄に何か言われても、揺れませんでしたか」
「揺れませんでした」
「なぜですか」
私はしばらく考えた。
「殿下が来てくれると思っていたから、かもしれません」
殿下が、静かにこちらを向いた。
「……俺が来ると、わかっていたのですか」
「わかっていました。殿下は、必ずと言ったので」
◆
殿下がしばらく、何も言わなかった。
それから、静かに言った。
「……俺は、あなたのそばにいたい。それは、変わりません」
「知っています」
「噂があっても、兄が何か言っても——それは変わらない」
「……はい」
「あなたも、同じですか」
私はすぐに答えた。
「同じです」
殿下が小さく息をついた。ほっとしたような音だった。
◆
フェンが縁側から「そろそろうるさくなりそうだな」と言った。
「今は静かですよ」
「これからだ」
殿下が「フェンリルは先が読める」と言った。
「当然だ」
「……そうですね」
殿下が珍しく、フェンに素直に同意した。フェンが少しだけ、鼻先を上に向けた。
空が、深いオレンジから紫へと変わっていく。
今日ここにあるものが——当たり前になっていくといい、と私は思った。
この人が来ること。この声が聞こえること。この静けさが、続くこと。
(第44話へ続く)




