第4話「元夫の焦り」
報せが広まるのは、本当に早かった。
翌朝には王都中に知れ渡り、昼には近隣の貴族領にまで届いたと父が言った。夕刻には、ヴァルハイン家の門の外に野次馬が集まり始めた。
「聖獣の伴侶がここにいるというのは本当か」
「元侯爵夫人が、あのフェンリルに選ばれたというのか」
声は聞こえるが、私は表に出なかった。
フェンは縁側で悠然と毛繕いをしていた。
「……気にならないのですか」
「何がだ」
「外が騒がしいですよ」
「お前は気になるのか」
「……なりません」
正直なところ、何も感じなかった。
外の声も、視線も、遠い世界の出来事のようだった。
ただフェンの白銀の毛並みを眺めていると、不思議と心が凪いだ。
◆
父のもとへ、旧知の貴族から次々と文が届いた。
その中の一通を、父が険しい顔で持ってきた。
「エリーゼ。ガーランド家の話だ」
私は顔を上げた。フェンがぴくりと耳を動かした。
「ウィレムが、昨夜から部屋に閉じこもっているらしい。使用人が青ざめた顔で走り回っていると、近所の者が見ているそうだ」
「……そうですか」
「それだけではない。愛人のミレーヌという女が、屋敷の中で大声で喚いているという話だ。『なんでこんなことに』『聞いていない』と」
私は少し考えて、それから静かに答えた。
「……大変でしたね、ウィレム様も」
父がぽかんとした顔をした。
「怒らないのか」
「怒る気力もないのです。ただ」
私は縁側のフェンを見た。
白銀の毛並みが朝の光の中で淡く輝いている。
「私はここにいますから」
それだけで、十分だった。
◆
昼過ぎに、もう一報が届いた。
今度は使用人づてではなく、王都の社交界に顔のきく母の知人からだ。
「ガーランド侯爵が、方々に釈明の文を送っているそうよ」
母が困り顔で言った。
「『離縁は双方合意のもとで』と説明しているらしいけれど、誰も信じていないわ。聖獣の伴侶を手放したとなれば……」
言葉が途切れた。母も、それ以上は言いにくそうだった。
聖獣の伴侶を手放した男、ということになる。
貴族社会において、それがどれほどの意味を持つか。私にも想像はついた。
「エリーゼは……何も思わないの?」
「思いますよ」
私は正直に答えた。
「七年間、大変でした。もっと認めてほしかったとも思います。……でも、終わったことです」
母がしばらく黙っていた。それから、そっと私の手を握った。
「よく、帰ってきてくれたわね」
目の奥が、少しだけ熱くなった。
泣けなかった。でも、温かかった。
◆
夕方になって、フェンが不意に顔を上げた。
庭の方を向いて、鼻をひくつかせている。
「フェン? どうしましたか」
「……来る」
「え?」
「人だ。お前に会いに来る」
野次馬の類ではない。フェンの声音が、少し違った。値踏みするような、慎重な響きがあった。
しばらくして、門番が走ってきた。
「エリーゼ様、お客様がいらしております。……第二王子、カイル・ラングレア殿下とのことで」
王子。
私は思わず立ち上がった。
第二王子が、なぜヴァルハイン家に。
フェンがゆっくりと私の隣に立ち、金色の瞳で門の方を見た。その瞳が、何かを測るように細まった。
「……どんな人間か、見てやる」
「フェン、失礼なことは——」
「言わない。ただ、見る」
そう言って、フェンはゆったりと歩き出した。
私はその背を追いながら、何故か胸が少しだけ早鐘を打つのを感じた。
七年ぶりに、世界がざわざわしている。
まるで長い眠りから、目が覚め始めているようだった。
(第5話へ続く)




