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第35話「夕暮れどき」

 アルヴィン殿下とお茶をしてから、数日が経った。


 研究所の仕事は変わらず続いていた。患者が来て、薬草を摘んで、乾燥させて、調合する。その繰り返しの中に、今は確かな手ごたえがあった。


 夕方、片付けをしていると、フェンがぽつりと言った。


「……来る」


「誰が」


「殿下だ」


 言い終わるより先に、門の方から足音がした。



 カイル殿下は、手土産に焼き菓子を持ってきた。


「城下で買いました。甘いものは好きですか」


「……はい。ありがとうございます」


「兄との件が気になっていたので」


「わざわざ」


「わざわざ来ました」


 殿下が当然のように縁側に腰を下ろした。フェンが少し場所を空けた——珍しいことだった。



 三人で、夕暮れの庭を見ながら菓子を食べた。


 ラベンダーが夕日の中でゆれていた。鳥の声が遠くにあった。


「……怖くはなかったですか。兄の前で」


 殿下が静かに聞いた。


「怖くはありませんでした。ただ、緊張はしました」


「それは正直な答えです」


「殿下にはいつも正直に言えてしまいます」


「なぜですか」


 私はしばらく考えた。


「……嘘をついても、すぐわかりそうだから、かもしれません」


 殿下が少しだけ、口元を緩めた。


「……それは正しいかもしれません」



「アルヴィン殿下は、なぜ私に会いたかったのでしょうか」


 私が聞くと、殿下がしばらく黙った。


「……俺のことを、心配しているのだと思います」


「殿下を?」


「俺が誰かを大切にすることが、あまりなかったので」


 静かな言葉だった。


 私は何も言えなかった。


「……兄は、俺が変わったと思っているのでしょう。あなたに会ってから」


「変わりましたか」


「変わりました」


 殿下が庭を見たまま、静かに続けた。


「あなたに会う前の俺は、王城の仕事をこなすだけでした。誰かのために動くことはあっても——誰かのそばにいたいと思うことは、なかった」



 夕日が、少しずつ色を深めていた。


 私はその言葉を、胸の中でゆっくりと受け取った。


 誰かのそばにいたいと思うことは、なかった。


 それは——今は、あるということだろうか。


「……殿下」


「はい」


「私も、変わりました」


「どう変わりましたか」


「誰かが来てくれることを、待てるようになりました。あの離縁状の朝は——もう誰も待たないと思っていたので」


 殿下がこちらを向いた。


 目が合った。


 何も言わなかった。でも——その静けさが、どんな言葉より重かった。



 フェンがため息をついた。


「……お前たちは、遠回りだな」


「フェン」


「事実だ」


 殿下が少しだけ、笑いをこらえた。


「フェンリルの言う通りかもしれません」


「殿下まで」


「ただ——遠回りでも、ちゃんと向かっているなら、それでいいと思っています」


 私はしばらく、その言葉を聞いていた。


 ちゃんと向かっている。


 どこへ、とは言わなかった。でも——わかった気がした。


 庭のラベンダーが、夜風にそっと揺れた。


(第36話へ続く)

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