第35話「夕暮れどき」
アルヴィン殿下とお茶をしてから、数日が経った。
研究所の仕事は変わらず続いていた。患者が来て、薬草を摘んで、乾燥させて、調合する。その繰り返しの中に、今は確かな手ごたえがあった。
夕方、片付けをしていると、フェンがぽつりと言った。
「……来る」
「誰が」
「殿下だ」
言い終わるより先に、門の方から足音がした。
◆
カイル殿下は、手土産に焼き菓子を持ってきた。
「城下で買いました。甘いものは好きですか」
「……はい。ありがとうございます」
「兄との件が気になっていたので」
「わざわざ」
「わざわざ来ました」
殿下が当然のように縁側に腰を下ろした。フェンが少し場所を空けた——珍しいことだった。
◆
三人で、夕暮れの庭を見ながら菓子を食べた。
ラベンダーが夕日の中でゆれていた。鳥の声が遠くにあった。
「……怖くはなかったですか。兄の前で」
殿下が静かに聞いた。
「怖くはありませんでした。ただ、緊張はしました」
「それは正直な答えです」
「殿下にはいつも正直に言えてしまいます」
「なぜですか」
私はしばらく考えた。
「……嘘をついても、すぐわかりそうだから、かもしれません」
殿下が少しだけ、口元を緩めた。
「……それは正しいかもしれません」
◆
「アルヴィン殿下は、なぜ私に会いたかったのでしょうか」
私が聞くと、殿下がしばらく黙った。
「……俺のことを、心配しているのだと思います」
「殿下を?」
「俺が誰かを大切にすることが、あまりなかったので」
静かな言葉だった。
私は何も言えなかった。
「……兄は、俺が変わったと思っているのでしょう。あなたに会ってから」
「変わりましたか」
「変わりました」
殿下が庭を見たまま、静かに続けた。
「あなたに会う前の俺は、王城の仕事をこなすだけでした。誰かのために動くことはあっても——誰かのそばにいたいと思うことは、なかった」
◆
夕日が、少しずつ色を深めていた。
私はその言葉を、胸の中でゆっくりと受け取った。
誰かのそばにいたいと思うことは、なかった。
それは——今は、あるということだろうか。
「……殿下」
「はい」
「私も、変わりました」
「どう変わりましたか」
「誰かが来てくれることを、待てるようになりました。あの離縁状の朝は——もう誰も待たないと思っていたので」
殿下がこちらを向いた。
目が合った。
何も言わなかった。でも——その静けさが、どんな言葉より重かった。
◆
フェンがため息をついた。
「……お前たちは、遠回りだな」
「フェン」
「事実だ」
殿下が少しだけ、笑いをこらえた。
「フェンリルの言う通りかもしれません」
「殿下まで」
「ただ——遠回りでも、ちゃんと向かっているなら、それでいいと思っています」
私はしばらく、その言葉を聞いていた。
ちゃんと向かっている。
どこへ、とは言わなかった。でも——わかった気がした。
庭のラベンダーが、夜風にそっと揺れた。
(第36話へ続く)




