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第33話「城下町にて」

 殿下から手紙が来たのは、夜会から十日後だった。


 「先日の約束を果たしたいと思っています。来週の午後、時間はありますか。特別なところではありませんが——城下の市場を歩いてみたいと思っています」


 最後に一行だけ付け足してあった。


 「フェンリルが来ると、目立つかもしれませんが」


 私はその手紙をフェンに見せた。


「……俺が目立つのは当然だ」


「問題はそこではないと思いますが」


「行くかどうか聞きたいのか」


「……はい」


「行く」


 それで終わりだった。



 当日の昼過ぎ、殿下は王家の紋章のない、地味な上着で現れた。


「……いつもと少し違いますね」


「目立たない方がいいかと思って」


 フェンが殿下を上から下まで見た。


「……無駄だ」


「フェンリルと歩く時点で無駄ですか」


「そうだ」


 殿下が少し苦笑した。



 城下の市場は、午後の一番賑やかな時間だった。


 果物売り、香辛料売り、布地を広げた露店。人々がそれぞれの用事で行き交い、子どもが走り、犬が吠えた——フェンを見て、すぐに黙った。


「フェン、犬が怖がっています」


「知っている」


「少し小さく見せることはできませんか」


「できない」


「……そうですか」


 殿下が隣で「仕方がありませんね」と言った。穏やかな顔をしていた。



 しばらく歩いていると、乾燥した薬草を並べた露店に目が止まった。


「少し、見てもいいですか」


「もちろんです」


 私は棚に並んだ束を一つ一つ確認した。カモミール、セージ、ローズマリー。鮮度のいいものと、少し傷んでいるものが混ざっている。


「これとこれは状態がいいですね」と店主に声をかけると、店主が目を丸くした。


「お詳しいんですね、お嬢さん」


「薬師をしていますので」


「へえ! ヴァルハイン家近くの研究所の方ですか? うちの妻が先月お世話になりまして」


 私は少し驚いた。


「そうでしたか。よくなられましたか」


「おかげさまで。あなたのところで出してもらった薬草茶が良かったって、ずっと言っていますよ」



 露店を離れたあと、殿下が静かに言った。


「ここでも知られているのですね」


「……そうみたいです。少し、驚きました」


「俺は驚いていません」


「そうですか」


「あなたのしていることは、ちゃんと届いています。それだけのことです」


 私はしばらく、その言葉を受け取った。


 ちゃんと届いている。


 七年間、誰かの家のために尽くして、それでも何も残らなかったと思っていた。でも今は——自分のしたことが、誰かの記憶に残っている。


「……ありがとうございます」


「礼には及びません。事実を言っただけです」



 帰り道、三人で並んで歩いた。


 フェンが私の左、殿下が右。


 人々が道を開けるのは主にフェンのせいだったが、それでも歩きやすかった。


「楽しかったですか」


 殿下が聞いた。


「……はい。とても」


「それは良かった」


「殿下は?」


 殿下が少しの間、黙った。


「俺も」


 それだけだった。でも——その一言が、とても重かった。



 別れ際、殿下が「また来ましょう」と言った。


「来月、季節の市が立ちます。その頃に」


「はい、ぜひ」


 フェンが「俺も来る」と言った。


「当然です」と殿下が答えた。


 フェンが少しだけ、鼻息をついた。でもそれは、いつものため息よりずっと軽かった。


 夕暮れが、城下町をオレンジに染めていた。


 ああ、と私は思った。


 こんな時間が、また来る。


 それだけで——十分すぎた。


(第34話へ続く)

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