第33話「城下町にて」
殿下から手紙が来たのは、夜会から十日後だった。
「先日の約束を果たしたいと思っています。来週の午後、時間はありますか。特別なところではありませんが——城下の市場を歩いてみたいと思っています」
最後に一行だけ付け足してあった。
「フェンリルが来ると、目立つかもしれませんが」
私はその手紙をフェンに見せた。
「……俺が目立つのは当然だ」
「問題はそこではないと思いますが」
「行くかどうか聞きたいのか」
「……はい」
「行く」
それで終わりだった。
◆
当日の昼過ぎ、殿下は王家の紋章のない、地味な上着で現れた。
「……いつもと少し違いますね」
「目立たない方がいいかと思って」
フェンが殿下を上から下まで見た。
「……無駄だ」
「フェンリルと歩く時点で無駄ですか」
「そうだ」
殿下が少し苦笑した。
◆
城下の市場は、午後の一番賑やかな時間だった。
果物売り、香辛料売り、布地を広げた露店。人々がそれぞれの用事で行き交い、子どもが走り、犬が吠えた——フェンを見て、すぐに黙った。
「フェン、犬が怖がっています」
「知っている」
「少し小さく見せることはできませんか」
「できない」
「……そうですか」
殿下が隣で「仕方がありませんね」と言った。穏やかな顔をしていた。
◆
しばらく歩いていると、乾燥した薬草を並べた露店に目が止まった。
「少し、見てもいいですか」
「もちろんです」
私は棚に並んだ束を一つ一つ確認した。カモミール、セージ、ローズマリー。鮮度のいいものと、少し傷んでいるものが混ざっている。
「これとこれは状態がいいですね」と店主に声をかけると、店主が目を丸くした。
「お詳しいんですね、お嬢さん」
「薬師をしていますので」
「へえ! ヴァルハイン家近くの研究所の方ですか? うちの妻が先月お世話になりまして」
私は少し驚いた。
「そうでしたか。よくなられましたか」
「おかげさまで。あなたのところで出してもらった薬草茶が良かったって、ずっと言っていますよ」
◆
露店を離れたあと、殿下が静かに言った。
「ここでも知られているのですね」
「……そうみたいです。少し、驚きました」
「俺は驚いていません」
「そうですか」
「あなたのしていることは、ちゃんと届いています。それだけのことです」
私はしばらく、その言葉を受け取った。
ちゃんと届いている。
七年間、誰かの家のために尽くして、それでも何も残らなかったと思っていた。でも今は——自分のしたことが、誰かの記憶に残っている。
「……ありがとうございます」
「礼には及びません。事実を言っただけです」
◆
帰り道、三人で並んで歩いた。
フェンが私の左、殿下が右。
人々が道を開けるのは主にフェンのせいだったが、それでも歩きやすかった。
「楽しかったですか」
殿下が聞いた。
「……はい。とても」
「それは良かった」
「殿下は?」
殿下が少しの間、黙った。
「俺も」
それだけだった。でも——その一言が、とても重かった。
◆
別れ際、殿下が「また来ましょう」と言った。
「来月、季節の市が立ちます。その頃に」
「はい、ぜひ」
フェンが「俺も来る」と言った。
「当然です」と殿下が答えた。
フェンが少しだけ、鼻息をついた。でもそれは、いつものため息よりずっと軽かった。
夕暮れが、城下町をオレンジに染めていた。
ああ、と私は思った。
こんな時間が、また来る。
それだけで——十分すぎた。
(第34話へ続く)




