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第23話「研究所の初日」

 研究所が使えるようになったのは、工事が始まってひと月半後のことだった。


 小さな建物だった。石造りの壁に木の扉。中に入ると、調合室が二部屋と、乾燥棚のある作業室が一部屋。倉庫はその奥。窓が多くて、午前中は東から、午後は西から光が差し込んだ。


 私はしばらく、扉の前に立っていた。


「……入らないのか」


 フェンが隣で言った。


「少し待ってください」


「何を待っている」


「実感しています」


 フェンが鼻から息を吐いた。それから黙って待っていてくれた。



 調合室の棚には、ヴァルハイン家の庭から移してきた薬草がずらりと並んでいた。乾燥させたものと、生のもの。瓶に入れたものと、布袋に入れたもの。机の上には調合道具を一式並べた。


 私はそこに立って、初めて——本当の意味で、ここが自分の場所だと思った。


 侯爵夫人の執務室ではなかった。誰かの家の一角でもなかった。


 自分が、自分のために作った場所だった。


「……フェン」


「何だ」


「ありがとうございます」


「俺に言うな。お前が作ったのだ」


「フェンがいなければ、ここまで来られませんでした」


 フェンが鼻先をそらした。


「……うるさい」


 でも動かなかった。調合室の入り口で、ぴったりと私の隣に立っていた。



 最初に来たのは、近所の子供を連れた母親だった。


 娘の咳が長引いているが、薬師に診せる余裕がないと言った。私はフェンに香りを確認してもらいながら、百日咳に効くハーブを何種類か組み合わせて、煎じ薬を作った。


「お代は」


「いりません。ただ、よくなったら教えてください」


 母親が驚いた顔をして、それから深く頭を下げた。


 昼までにあと三人来た。腰の痛い老人、手荒れに悩む商家の女性、眠れない夜が続いているという職人の男性。一人一人に合わせて、薬を調合した。


 フェンが「この配合は少し多い」「こちらは問題ない」と隣で言い続けた。最初から一緒にいてくれた。



 午後、カイル殿下が来た。


 建物の完成を祝うつもりで来てくれたのだろう。でも中に入ると、もう使い始めていることに気づいて、少し目を丸くした。


「……もう始めたのですか」


「建物が使えるようになったので」


「今日からですか」


「今日からです」


 殿下がしばらく調合室を見渡して、それから微かに笑った。


「……いいですね」


「何がですか」


「あなたが、ここにいる」


 静かな声だった。褒めているというより、ただ感じたことをそのまま言っているような言い方だった。


 私は少し考えてから、「そうですね」と答えた。


 自分でも、そう思っていた。



 夕暮れ時、片付けをしながら、今日来た人たちのことを思い出した。


 子供を抱えた母親の安堵した顔。老人が「この辺にこういう場所ができてよかった」と言った言葉。職人の男性が帰り際に「また来てもいいですか」と確認したこと。


 七年間、誰かのために動いてきた。


 でも今日の「誰かのために」は、あの七年間とは違った。やらなければならないからではなく、やりたいからやっていた。


「……フェン」


「何だ」


「今日、楽しかったです」


 フェンが少しの間、黙った。


「そうか」


「あなたが一緒にいてくれたから、心強かった」


「……当然だ。俺の伴侶だ」


 いつもの言い方だった。でも今日は、それがいつもより温かく聞こえた。


 殿下が帰り際に振り返って、「また来ます」と言った。


「いつでも」と私は答えた。


 それはもう、社交辞令ではなかった。


(第24話へ続く)

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