第23話「研究所の初日」
研究所が使えるようになったのは、工事が始まってひと月半後のことだった。
小さな建物だった。石造りの壁に木の扉。中に入ると、調合室が二部屋と、乾燥棚のある作業室が一部屋。倉庫はその奥。窓が多くて、午前中は東から、午後は西から光が差し込んだ。
私はしばらく、扉の前に立っていた。
「……入らないのか」
フェンが隣で言った。
「少し待ってください」
「何を待っている」
「実感しています」
フェンが鼻から息を吐いた。それから黙って待っていてくれた。
◆
調合室の棚には、ヴァルハイン家の庭から移してきた薬草がずらりと並んでいた。乾燥させたものと、生のもの。瓶に入れたものと、布袋に入れたもの。机の上には調合道具を一式並べた。
私はそこに立って、初めて——本当の意味で、ここが自分の場所だと思った。
侯爵夫人の執務室ではなかった。誰かの家の一角でもなかった。
自分が、自分のために作った場所だった。
「……フェン」
「何だ」
「ありがとうございます」
「俺に言うな。お前が作ったのだ」
「フェンがいなければ、ここまで来られませんでした」
フェンが鼻先をそらした。
「……うるさい」
でも動かなかった。調合室の入り口で、ぴったりと私の隣に立っていた。
◆
最初に来たのは、近所の子供を連れた母親だった。
娘の咳が長引いているが、薬師に診せる余裕がないと言った。私はフェンに香りを確認してもらいながら、百日咳に効くハーブを何種類か組み合わせて、煎じ薬を作った。
「お代は」
「いりません。ただ、よくなったら教えてください」
母親が驚いた顔をして、それから深く頭を下げた。
昼までにあと三人来た。腰の痛い老人、手荒れに悩む商家の女性、眠れない夜が続いているという職人の男性。一人一人に合わせて、薬を調合した。
フェンが「この配合は少し多い」「こちらは問題ない」と隣で言い続けた。最初から一緒にいてくれた。
◆
午後、カイル殿下が来た。
建物の完成を祝うつもりで来てくれたのだろう。でも中に入ると、もう使い始めていることに気づいて、少し目を丸くした。
「……もう始めたのですか」
「建物が使えるようになったので」
「今日からですか」
「今日からです」
殿下がしばらく調合室を見渡して、それから微かに笑った。
「……いいですね」
「何がですか」
「あなたが、ここにいる」
静かな声だった。褒めているというより、ただ感じたことをそのまま言っているような言い方だった。
私は少し考えてから、「そうですね」と答えた。
自分でも、そう思っていた。
◆
夕暮れ時、片付けをしながら、今日来た人たちのことを思い出した。
子供を抱えた母親の安堵した顔。老人が「この辺にこういう場所ができてよかった」と言った言葉。職人の男性が帰り際に「また来てもいいですか」と確認したこと。
七年間、誰かのために動いてきた。
でも今日の「誰かのために」は、あの七年間とは違った。やらなければならないからではなく、やりたいからやっていた。
「……フェン」
「何だ」
「今日、楽しかったです」
フェンが少しの間、黙った。
「そうか」
「あなたが一緒にいてくれたから、心強かった」
「……当然だ。俺の伴侶だ」
いつもの言い方だった。でも今日は、それがいつもより温かく聞こえた。
殿下が帰り際に振り返って、「また来ます」と言った。
「いつでも」と私は答えた。
それはもう、社交辞令ではなかった。
(第24話へ続く)




