第2話「白い森の聖獣」
白銀の影が消えてから、しばらくの間、馬車の中は静まり返っていた。
御者のトマスは何も言わなかった。
私も何も言えなかった。
ただ、あの金色の瞳が——まるで私を探し当てたような、あの眼差しが——胸の奥にじっと貼り付いていた。
「エリーゼ様、あの……大丈夫でございましょうか」
トマスがおそるおそる声をかけてくれた。心配そうな声だった。
私は我に返って、「ええ、大丈夫です」と答えた。
七年ぶりに使った言葉だった。
大丈夫、という言葉を、本当の意味で言えた気がした。
◆
白い森を抜けたところで、馬が突然止まった。
「な——」
トマスが素っ頓狂な声を上げた。
私は窓の外を覗いた。
道の真ん中に、白銀の影があった。
さっきの、狼だった。
背丈は私の胸ほどもある。いや、四足で立ってその高さだから、立ち上がれば——考えるのをやめた。とにかく、大きかった。白銀の毛並みは霧の中より鮮明で、陽光の中で淡く輝いている。
そして、金色の瞳が。
じっと、私を見ていた。
「エリーゼ様、下りてはなりません! あれは——」
「少し、待ってください」
気がつくと、私は扉を開けていた。
自分でも驚いた。足が先に動いていた。
地面に降り立つと、白銀の狼がぴくりと耳を動かした。大きな頭が、わずかにこちらへ傾く。
怖いはずだった。逃げるべきだった。
でも、その瞳に敵意はなかった。
ただ——ひたむきに、私を見ていた。
「……こんにちは」
我ながら間抜けな挨拶だと思った。
相手は巨大な狼で、返事が返ってくるはずもない。
でも狼は、ゆっくりと立ち上がって、私の方へ歩いてきた。
「エリーゼ様!」
トマスが叫んだ。
私は動けなかった。
白銀の狼は私の目の前で立ち止まった。大きな鼻先が、そっと私の手に触れた。
温かかった。
ふわりとした毛並みが手のひらに触れて、私は息を飲んだ。思っていたより、ずっと柔らかかった。まるで上質な絹よりも、もっと優しい——
狼は私の手をひと嗅ぎして、それから大きな頭を私の腹のあたりに押しつけてきた。
「……っ」
重かった。
でも、温かかった。
子どもの頃、犬に抱きつかれたときのことを思い出した。あの頃は無邪気に笑えた。七年ぶりに、その感覚が戻ってくる気がした。
「あなたは……何者ですか」
問いかけると、金色の瞳がゆっくりと私を見上げた。
答えは返ってこなかった。でも、その目は何か言いたそうだった。
私は恐る恐る、白銀の毛並みに手を伸ばした。
触れた瞬間、全身に温かいものが広がった。
ふわふわで、柔らかくて、まるでこの狼そのものが光でできているみたいだった。指を通すたびに白銀の毛がさらさらと流れて、冷えていた手先が少しずつ温まっていく。
知らないうちに、私は両手でその首の毛に指を埋めていた。
「……気持ちいいですね」
呟いてから、少し恥ずかしくなった。
でも狼は嬉しそうに目を細めて、もう一度頭を私に押しつけてきた。
◆
問題は、そこからだった。
「さあ、もう行きますよ」
馬車に戻ろうとすると、白銀の狼もついてきた。
「え」
馬車に乗り込むと、狼も乗り込もうとした。当然ながら入れなかった。大きすぎる。でも馬車の外でじっと座って、金色の瞳でこちらを見ていた。
「……行きますよ?」
トマスが恐る恐る手綱を動かした。
馬車がゆっくりと進む。
狼も、ついてきた。
「あの……エリーゼ様」
「……わかっています」
しばらく様子を見たが、白銀の狼は馬車のすぐ横を、ずっと並走してきた。疲れる様子もない。むしろ楽しそうに、金色の瞳を輝かせながら。
「こんな大きな狼、聞いたことがありません……」
トマスが青い顔で言った。
「もしかして、本当に伝説の……」
「聖獣、ですか」
私はもう一度、窓の外の白銀の狼を見た。
陽光の中で白く輝く毛並み。金色の双眸。並の獣ではない、確かな存在感。
聖獣——数百年に一度、「真の伴侶」を選ぶと言われる伝説の存在。
まさか、と思った。
そのとき、白銀の狼がこちらを見た。
金色の瞳が、まっすぐに私を捉えた。
そして——どこかで聞こえた気がした。
声でも、言葉でもない。もっと深いところに届く、何か。
——やっと、見つけた。
「……え?」
私は思わず声に出した。
白銀の狼は答えず、ただ金色の瞳を細めた。まるで笑っているみたいだった。
胸が、どきどきした。
七年間、忘れていた感覚だった。




