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第2話「白い森の聖獣」

白銀の影が消えてから、しばらくの間、馬車の中は静まり返っていた。


御者のトマスは何も言わなかった。

私も何も言えなかった。


ただ、あの金色の瞳が——まるで私を探し当てたような、あの眼差しが——胸の奥にじっと貼り付いていた。


「エリーゼ様、あの……大丈夫でございましょうか」


トマスがおそるおそる声をかけてくれた。心配そうな声だった。

私は我に返って、「ええ、大丈夫です」と答えた。


七年ぶりに使った言葉だった。

大丈夫、という言葉を、本当の意味で言えた気がした。



白い森を抜けたところで、馬が突然止まった。


「な——」


トマスが素っ頓狂な声を上げた。

私は窓の外を覗いた。


道の真ん中に、白銀の影があった。


さっきの、狼だった。


背丈は私の胸ほどもある。いや、四足で立ってその高さだから、立ち上がれば——考えるのをやめた。とにかく、大きかった。白銀の毛並みは霧の中より鮮明で、陽光の中で淡く輝いている。


そして、金色の瞳が。

じっと、私を見ていた。


「エリーゼ様、下りてはなりません! あれは——」


「少し、待ってください」


気がつくと、私は扉を開けていた。


自分でも驚いた。足が先に動いていた。


地面に降り立つと、白銀の狼がぴくりと耳を動かした。大きな頭が、わずかにこちらへ傾く。


怖いはずだった。逃げるべきだった。

でも、その瞳に敵意はなかった。


ただ——ひたむきに、私を見ていた。


「……こんにちは」


我ながら間抜けな挨拶だと思った。

相手は巨大な狼で、返事が返ってくるはずもない。


でも狼は、ゆっくりと立ち上がって、私の方へ歩いてきた。


「エリーゼ様!」


トマスが叫んだ。

私は動けなかった。


白銀の狼は私の目の前で立ち止まった。大きな鼻先が、そっと私の手に触れた。


温かかった。


ふわりとした毛並みが手のひらに触れて、私は息を飲んだ。思っていたより、ずっと柔らかかった。まるで上質な絹よりも、もっと優しい——


狼は私の手をひと嗅ぎして、それから大きな頭を私の腹のあたりに押しつけてきた。


「……っ」


重かった。

でも、温かかった。


子どもの頃、犬に抱きつかれたときのことを思い出した。あの頃は無邪気に笑えた。七年ぶりに、その感覚が戻ってくる気がした。


「あなたは……何者ですか」


問いかけると、金色の瞳がゆっくりと私を見上げた。

答えは返ってこなかった。でも、その目は何か言いたそうだった。


私は恐る恐る、白銀の毛並みに手を伸ばした。


触れた瞬間、全身に温かいものが広がった。


ふわふわで、柔らかくて、まるでこの狼そのものが光でできているみたいだった。指を通すたびに白銀の毛がさらさらと流れて、冷えていた手先が少しずつ温まっていく。


知らないうちに、私は両手でその首の毛に指を埋めていた。


「……気持ちいいですね」


呟いてから、少し恥ずかしくなった。

でも狼は嬉しそうに目を細めて、もう一度頭を私に押しつけてきた。



問題は、そこからだった。


「さあ、もう行きますよ」


馬車に戻ろうとすると、白銀の狼もついてきた。


「え」


馬車に乗り込むと、狼も乗り込もうとした。当然ながら入れなかった。大きすぎる。でも馬車の外でじっと座って、金色の瞳でこちらを見ていた。


「……行きますよ?」


トマスが恐る恐る手綱を動かした。

馬車がゆっくりと進む。


狼も、ついてきた。


「あの……エリーゼ様」

「……わかっています」


しばらく様子を見たが、白銀の狼は馬車のすぐ横を、ずっと並走してきた。疲れる様子もない。むしろ楽しそうに、金色の瞳を輝かせながら。


「こんな大きな狼、聞いたことがありません……」


トマスが青い顔で言った。

「もしかして、本当に伝説の……」


「聖獣、ですか」


私はもう一度、窓の外の白銀の狼を見た。

陽光の中で白く輝く毛並み。金色の双眸。並の獣ではない、確かな存在感。


聖獣——数百年に一度、「真の伴侶」を選ぶと言われる伝説の存在。


まさか、と思った。


そのとき、白銀の狼がこちらを見た。


金色の瞳が、まっすぐに私を捉えた。


そして——どこかで聞こえた気がした。


声でも、言葉でもない。もっと深いところに届く、何か。


——やっと、見つけた。


「……え?」


私は思わず声に出した。

白銀の狼は答えず、ただ金色の瞳を細めた。まるで笑っているみたいだった。


胸が、どきどきした。

七年間、忘れていた感覚だった。

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