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第1話「離縁状の朝」

「旦那様は、愛人の方の子をお認めになります。離縁状をお受け取りください、エリーゼ様」


侍女の言葉は、静かな朝の光の中に落ちた。

私は手の中の白磁のカップを、そっとソーサーに戻した。


七年。彼の家族のために尽くした、七年間だった。


「……わかりました」


涙は、もう出なかった。



この屋敷に嫁いできたのは、私がまだ十九歳の頃だった。


ガーランド侯爵家の若き当主、ウィレム様との婚姻が決まったとき、まだ何かを夢見ていた気がする。愛されなくてもいい。ただ、この人の家族の役に立てれば——そう思いながら、嫁入りの馬車に揺られていた。


七年で、その気持ちはどこへ行ったのだろう。


舅の長い病の看護。姑との終わらない確執の仲裁。財政難に傾きかけた領地の立て直し。毎季の社交界では笑顔を絶やさず、ガーランド家の体面を守り続けた。他家からの縁談の断り方、取引相手との折衝、慈善事業の取りまとめ。

そのどれも、「よくやった」とは言われなかった。

でも、「なぜできていない」とも言われなかった。


だからそれでいい、と思っていた。


愚かだったと思う。それが今の、正直な気持ちだった。


震える手で封筒を差し出してくれていたのは、侍女のリナだった。

長く仕えてくれた、信頼できる娘だ。

今にも泣き出しそうなその顔を見ながら、私は封を開いた。


端正な筆跡で、婚姻の解消が告げられていた。

理由は簡潔だった。


愛人の女性——ミレーヌという伯爵令嬢——が子を身ごもり、ウィレム様はその子を正式に認知する。侯爵家に跡継ぎをもたらす義務が生じたため、私との婚姻は円満に解消とする。


七年間、子を産めなかった私への、静かな答えだった。


「エリーゼ様……」


リナが唇を震わせた。

私は書状をたたんで、テーブルに置いた。


「荷物をまとめます。一日いただけますか」

「そんな……エリーゼ様、何かできることが……」

「ありがとう、リナ。でも大丈夫です」


大丈夫。

口に出して、自分でも不思議に思った。

大丈夫でも、大丈夫でなくても、何も変わらないのに、なぜそう言えるのだろう。


悲しくないわけではなかった。

怒っていないわけでもなかった。


ただ、もう何も出てこないのだと思った。

涙も、言葉も、感情そのものも——どこか遠いところへ行ってしまったみたいで。


私は立ち上がり、部屋の支度を始めた。



翌朝、私は最低限の荷物だけを持って屋敷を出ることにした。


嫁入り道具として持ち込んだものは実家の財産だ。それさえあれば十分だった。七年で増えたものといえば、この家のことを知りすぎた記憶くらいだろう。それは持ち出せない。


廊下を歩いていると、大広間の方から声が聞こえてきた。


やわらかな笑い声だった。


私の足が、少しだけ遅くなった。


扉の隙間から光が漏れていた。ウィレム様がそこにいた。その隣に、見たことのない女性がいた。小柄で、柔らかな笑顔をたたえた、若い女性。

ウィレム様は、その肩を抱いていた。


七年間、一度もしてくれなかったことを。

まるで当然のように。


朝の光の中で、二人はとても幸せそうだった。


私は視線を外して、歩みを再開した。


胸が痛いか、と問われれば、痛いのだと思う。

でも、それがどんな種類の痛みなのか、もうよくわからなかった。


ただひとつだけ、はっきりとわかることがあった。


——私には、最初から、ここに居場所がなかった。



屋敷の門を出ると、秋の風が頬を撫でた。


実家のヴァルハイン家まで、馬車で半日ほどの距離だ。裕福ではないが、父と母が待っていてくれる。それだけで十分だった。


「お気をつけて、エリーゼ様」


リナが目を赤くしながら見送ってくれた。

私は微笑んで、馬車に乗り込んだ。


窓の外で、ガーランド侯爵邸が小さくなっていく。

七年間、あそこで何をしていたのだろう、と考えた。


答えは出なかった。

もう出なくていい、とも思った。


終わったことだから。



白い森に差しかかったのは、昼少し前のことだった。


霧が深く、木々の幹がぼんやりと白く霞んでいた。馬車の中も少し薄暗くなって、私はうとうとしかけていた——そのとき、御者の声がした。


「エリーゼ様……あの、少し、様子がおかしい気がするのですが」


緊張した声音だった。

私は窓のカーテンをそっと開けた。


霧の奥に、何かがいた。


大きかった。

とても、大きかった。


白銀の毛並みをした、巨大な獣——狼だろうか。いや、並の狼ではない。背丈だけで馬車の扉と同じくらいある。霧の中に佇んで、じっとこちらを見ていた。


金色の、双眸で。


馬が嘶いた。御者が手綱を引き絞るのを感じた。


私はただ、その目を見ていた。


怖いはずだった。

逃げるべきだった。


でも、その金色の瞳は——何か、まるで私を探していたかのような、そんな色をしていた。


「エリーゼ様、あれは……もしかして……」


御者が震えた声で言いかけた瞬間、白銀の影は音もなく霧の中へ消えた。


馬車の中に、静寂が戻った。


私はしばらく、何も言えなかった。


金色の瞳が、まだ瞼の裏に残っている。

あれは、何だったのだろう。


そして——なぜ、あんなに胸が、どきどきするのだろう。


七年ぶりに感じた、確かな、感情の揺れだった。

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