第1話「離縁状の朝」
「旦那様は、愛人の方の子をお認めになります。離縁状をお受け取りください、エリーゼ様」
侍女の言葉は、静かな朝の光の中に落ちた。
私は手の中の白磁のカップを、そっとソーサーに戻した。
七年。彼の家族のために尽くした、七年間だった。
「……わかりました」
涙は、もう出なかった。
◆
この屋敷に嫁いできたのは、私がまだ十九歳の頃だった。
ガーランド侯爵家の若き当主、ウィレム様との婚姻が決まったとき、まだ何かを夢見ていた気がする。愛されなくてもいい。ただ、この人の家族の役に立てれば——そう思いながら、嫁入りの馬車に揺られていた。
七年で、その気持ちはどこへ行ったのだろう。
舅の長い病の看護。姑との終わらない確執の仲裁。財政難に傾きかけた領地の立て直し。毎季の社交界では笑顔を絶やさず、ガーランド家の体面を守り続けた。他家からの縁談の断り方、取引相手との折衝、慈善事業の取りまとめ。
そのどれも、「よくやった」とは言われなかった。
でも、「なぜできていない」とも言われなかった。
だからそれでいい、と思っていた。
愚かだったと思う。それが今の、正直な気持ちだった。
震える手で封筒を差し出してくれていたのは、侍女のリナだった。
長く仕えてくれた、信頼できる娘だ。
今にも泣き出しそうなその顔を見ながら、私は封を開いた。
端正な筆跡で、婚姻の解消が告げられていた。
理由は簡潔だった。
愛人の女性——ミレーヌという伯爵令嬢——が子を身ごもり、ウィレム様はその子を正式に認知する。侯爵家に跡継ぎをもたらす義務が生じたため、私との婚姻は円満に解消とする。
七年間、子を産めなかった私への、静かな答えだった。
「エリーゼ様……」
リナが唇を震わせた。
私は書状をたたんで、テーブルに置いた。
「荷物をまとめます。一日いただけますか」
「そんな……エリーゼ様、何かできることが……」
「ありがとう、リナ。でも大丈夫です」
大丈夫。
口に出して、自分でも不思議に思った。
大丈夫でも、大丈夫でなくても、何も変わらないのに、なぜそう言えるのだろう。
悲しくないわけではなかった。
怒っていないわけでもなかった。
ただ、もう何も出てこないのだと思った。
涙も、言葉も、感情そのものも——どこか遠いところへ行ってしまったみたいで。
私は立ち上がり、部屋の支度を始めた。
◆
翌朝、私は最低限の荷物だけを持って屋敷を出ることにした。
嫁入り道具として持ち込んだものは実家の財産だ。それさえあれば十分だった。七年で増えたものといえば、この家のことを知りすぎた記憶くらいだろう。それは持ち出せない。
廊下を歩いていると、大広間の方から声が聞こえてきた。
やわらかな笑い声だった。
私の足が、少しだけ遅くなった。
扉の隙間から光が漏れていた。ウィレム様がそこにいた。その隣に、見たことのない女性がいた。小柄で、柔らかな笑顔をたたえた、若い女性。
ウィレム様は、その肩を抱いていた。
七年間、一度もしてくれなかったことを。
まるで当然のように。
朝の光の中で、二人はとても幸せそうだった。
私は視線を外して、歩みを再開した。
胸が痛いか、と問われれば、痛いのだと思う。
でも、それがどんな種類の痛みなのか、もうよくわからなかった。
ただひとつだけ、はっきりとわかることがあった。
——私には、最初から、ここに居場所がなかった。
◆
屋敷の門を出ると、秋の風が頬を撫でた。
実家のヴァルハイン家まで、馬車で半日ほどの距離だ。裕福ではないが、父と母が待っていてくれる。それだけで十分だった。
「お気をつけて、エリーゼ様」
リナが目を赤くしながら見送ってくれた。
私は微笑んで、馬車に乗り込んだ。
窓の外で、ガーランド侯爵邸が小さくなっていく。
七年間、あそこで何をしていたのだろう、と考えた。
答えは出なかった。
もう出なくていい、とも思った。
終わったことだから。
◆
白い森に差しかかったのは、昼少し前のことだった。
霧が深く、木々の幹がぼんやりと白く霞んでいた。馬車の中も少し薄暗くなって、私はうとうとしかけていた——そのとき、御者の声がした。
「エリーゼ様……あの、少し、様子がおかしい気がするのですが」
緊張した声音だった。
私は窓のカーテンをそっと開けた。
霧の奥に、何かがいた。
大きかった。
とても、大きかった。
白銀の毛並みをした、巨大な獣——狼だろうか。いや、並の狼ではない。背丈だけで馬車の扉と同じくらいある。霧の中に佇んで、じっとこちらを見ていた。
金色の、双眸で。
馬が嘶いた。御者が手綱を引き絞るのを感じた。
私はただ、その目を見ていた。
怖いはずだった。
逃げるべきだった。
でも、その金色の瞳は——何か、まるで私を探していたかのような、そんな色をしていた。
「エリーゼ様、あれは……もしかして……」
御者が震えた声で言いかけた瞬間、白銀の影は音もなく霧の中へ消えた。
馬車の中に、静寂が戻った。
私はしばらく、何も言えなかった。
金色の瞳が、まだ瞼の裏に残っている。
あれは、何だったのだろう。
そして——なぜ、あんなに胸が、どきどきするのだろう。
七年ぶりに感じた、確かな、感情の揺れだった。




