第19話「聖獣の伴侶」
研究所の基礎工事が始まった日の夜、フェンが珍しく、自分から話しかけてきた。
縁側に並んで座っていた。月が出ていて、庭の薬草が青白く光って見えた。フェンはしばらく黙っていたが、やがてぽつりと言った。
「俺には、以前にも伴侶がいた」
私は少し驚いて、フェンを見た。
「……そうなのですか」
「ずっと昔だ。お前が生まれるより、はるかに前」
「どんな方でしたか」
フェンがしばらく黙った。
「……よく笑う女だった。お前とは、全然違う」
◆
「聖獣の伴侶というのは」フェンが続けた。「俺が選ぶのではない。魂の形が、合う者がいる。そういう者の前に、俺は現れる」
「……魂の形」
「似ているわけではない。欠けている部分が、嵌まる形をしている。そういうことだ」
私はしばらく、その言葉を噛み締めた。
「以前の伴侶の方は」
「寿命で逝った。人の命は短い」
淡々とした言い方だった。でも、その声に何かがあった。長い時間をかけて、静かになった何かが。
「……寂しくありませんでしたか」
フェンが少しの間、答えなかった。
「寂しいという言葉が、当てはまるかどうかわからない。ただ——長い間、誰も選ばなかった」
「それはどのくらい」
「百年ほど」
私は言葉を失った。
百年。人間が生まれて死んで、また次の世代が育つ時間を、フェンはただ一人で——
「フェン」
「何だ」
「……辛くなかったですか」
フェンがゆっくりと私を見た。銀色の目が、月明かりの中で静かに光っていた。
「辛いとも思わなかった。ただ、静かだった」
◆
「お前が現れたとき」フェンが続けた。「色が変わった、と言っただろう」
「はい」
「魂の色のことだ。お前の色は、俺が見たことのない色をしていた」
「どんな色ですか」
フェンが少し考えた。
「……白に近い。でも、白ではない。燃えているように見えるときと、水のように見えるときがある」
「それはどういう意味なのですか」
「わからない。ただ、見ていたいと思った」
私はしばらく、何も言えなかった。
見ていたい。フェンがそんなことを言うとは思わなかった。いつもぶっきらぼうで、命令ばかりで、「うるさい」しか言わないくせに。
「……フェン」
「何だ」
「あなたは、不思議な方ですね」
「聖獣だ。当然だ」
「そういう意味ではなくて」
私は少しだけ、フェンの毛並みに手を置いた。温かかった。いつも通り。
「ぶっきらぼうなのに、誰より優しい。そういう意味です」
フェンが鼻先をわずかにそらした。
「……気のせいだ」
「気のせいではありません」
「うるさい」
◆
しばらく、二人で月を見ていた。
フェンが、また静かに口を開いた。
「エリーゼ」
「はい」
「伴侶は——一人だけとは限らない」
私は少し、フェンを見た。どういう意味かわからなくて、聞き返そうとした。でもフェンが先に言った。
「俺は、お前の幸せを邪魔する気はない」
「……邪魔、とは」
「あの男のことだ」
殿下のことを言っているのだと、わかった。
「フェンは……いいのですか」
自分でも、何を聞いているのかよくわからなかった。でも、フェンは少しの間考えてから、静かに答えた。
「俺がいる。お前が誰と並んでも、俺はここにいる。それだけだ」
月明かりの中で、フェンの白銀の毛がほんの少し揺れた。
私はその言葉の意味を、すぐには整理できなかった。でも胸の奥に、何か大切なものが落ちてくる感じがした。
「……ありがとうございます」
「礼を言うな」
「言います」
フェンが小さくため息をついて、それから私の肩にそっと頭を乗せた。いつもの重さだった。いつもの温かさだった。
月が、庭の薬草の上を静かに照らしていた。
(第20話へ続く)




