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第18話「最初の苗」

 最初の苗を土に植えた日、空は雲ひとつなかった。


 ラベンダー、セイヨウノコギリソウ、コンフリー。それにカモミールと、少しだけエキナセア。小さな苗が並んで、まだ頼りなく風に揺れていた。


 私はしゃがんで、一本一本の根元を指で押さえた。


「しっかり根付くといいですね」


 隣にいたフェンが、「根付く」と短く言った。


「そう思いますか」


「俺がそう思えば、そうなる」


「……聖獣は、植物にも加護を与えられるのですか」


「俺がいる土地は、育ちがいい」


 私は少し考えてから、「それはずるいですね」と言った。


 フェンが「何がずるい」と言った。どこか機嫌がよさそうな声だった。



 午後になって、カイル殿下がまた来た。


 今日は視察ではなく、手土産を持ってきた。王城の料理人が作ったという焼き菓子の詰め合わせで、「作業の合間にどうぞ」と渡してくれた。


「毎回ご丁寧に」


「毎回来ているので」


 殿下が当然のように言った。


 三人で苗床の縁に腰を下ろして、焼き菓子を食べた。フェンも当然のように一つもらって、一口で食べた。


「美味いか」


「……普通だ」


「また普通ですか」


「普通に美味い」


 殿下が少し目を細めた。「それは褒めているのですか」と聞くと、フェンが「そうだ」と答えた。殿下が「ありがとうございます」と静かに言って、フェンが少し視線をそらした。


 二人の間に、奇妙な空気があった。険悪ではない。むしろ——少しずつ、慣れてきているような。



 夕方近く、殿下が少し改まった顔をした。


「一つ、伝えたいことがあります」


「どうぞ」


「研究所の正式な許可が、王家から下りました。来月には建物の基礎工事を始められます」


 私はしばらく、動けなかった。


 建物。基礎工事。


 漠然とした夢だったものが、土になって、苗になって、今度は建物になろうとしていた。


「……本当ですか」


「本当です。予算の承認も取れました。小さな建物ですが、研究と調合に使える部屋を三室。倉庫も一室」


「三室……」


「最初はそれで十分かと思いまして。手狭になれば増築できるよう、設計してあります」


 私はしばらく黙って、それからゆっくりと深呼吸した。


「……ありがとうございます」


「礼には及びません」


「いいえ、及びます」


 私が言うと、殿下がわずかに目を丸くした。


「……そうですか」


「これはもう、殿下のご厚意なしにはなかったことです。何度でも礼を言います」


 殿下がしばらく黙った。何かを言いかけて、やめた。また言いかけて——


「……あなたが喜んでくれると、俺も嬉しい」


 静かな声だった。


 私の胸が、また揺れた。


 フェンが私と殿下の間にすっと入って、どかりと座った。いつもの動作だった。でも今日は、少しだけ間が遅かった気がした。



「殿下」


 帰り際に、私は声をかけた。


「はい」


「先日、『続きはまた今度』とおっしゃいましたね」


 殿下の足が、わずかに止まった。


「……覚えていましたか」


「覚えています。『あなたには特に』と言った後の続きです」


 殿下がゆっくりと振り返った。夕陽が逆光になって、表情がよく見えなかった。でも、声は聞こえた。


「……今日は、まだ言えません」


「どうしてですか」


「もう少し、時間をください」


 迷いのある声だった。珍しかった。あの殿下が、迷っている。


「……わかりました」


 私が答えると、殿下が小さく「ありがとうございます」と言って、今度こそ帰っていった。



 フェンが私の隣で、ため息をついた。


「……何を待っているんだ、あの男は」


「私に聞かれても」


「お前はどう思う」


「どう、とは」


「あの男のことが」


 私は少し考えた。


 嫌いではなかった。むしろ——一緒にいると、不思議と落ち着いた。話すと、自分の考えが整理されていく気がした。計画書のことを思い出すと、今でも胸が温かくなった。


「……好ましいと思っています」


 正直に答えた。


 フェンが少しの間、黙った。


「……そうか」


 それだけ言って、フェンは先に歩き出した。


 背中が、少しだけ丸まっているように見えた。気のせいかもしれない。でも私は、急いでその後を追いながら——フェンのことが、とても愛しいと思った。


(第19話へ続く)

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