第18話「最初の苗」
最初の苗を土に植えた日、空は雲ひとつなかった。
ラベンダー、セイヨウノコギリソウ、コンフリー。それにカモミールと、少しだけエキナセア。小さな苗が並んで、まだ頼りなく風に揺れていた。
私はしゃがんで、一本一本の根元を指で押さえた。
「しっかり根付くといいですね」
隣にいたフェンが、「根付く」と短く言った。
「そう思いますか」
「俺がそう思えば、そうなる」
「……聖獣は、植物にも加護を与えられるのですか」
「俺がいる土地は、育ちがいい」
私は少し考えてから、「それはずるいですね」と言った。
フェンが「何がずるい」と言った。どこか機嫌がよさそうな声だった。
◆
午後になって、カイル殿下がまた来た。
今日は視察ではなく、手土産を持ってきた。王城の料理人が作ったという焼き菓子の詰め合わせで、「作業の合間にどうぞ」と渡してくれた。
「毎回ご丁寧に」
「毎回来ているので」
殿下が当然のように言った。
三人で苗床の縁に腰を下ろして、焼き菓子を食べた。フェンも当然のように一つもらって、一口で食べた。
「美味いか」
「……普通だ」
「また普通ですか」
「普通に美味い」
殿下が少し目を細めた。「それは褒めているのですか」と聞くと、フェンが「そうだ」と答えた。殿下が「ありがとうございます」と静かに言って、フェンが少し視線をそらした。
二人の間に、奇妙な空気があった。険悪ではない。むしろ——少しずつ、慣れてきているような。
◆
夕方近く、殿下が少し改まった顔をした。
「一つ、伝えたいことがあります」
「どうぞ」
「研究所の正式な許可が、王家から下りました。来月には建物の基礎工事を始められます」
私はしばらく、動けなかった。
建物。基礎工事。
漠然とした夢だったものが、土になって、苗になって、今度は建物になろうとしていた。
「……本当ですか」
「本当です。予算の承認も取れました。小さな建物ですが、研究と調合に使える部屋を三室。倉庫も一室」
「三室……」
「最初はそれで十分かと思いまして。手狭になれば増築できるよう、設計してあります」
私はしばらく黙って、それからゆっくりと深呼吸した。
「……ありがとうございます」
「礼には及びません」
「いいえ、及びます」
私が言うと、殿下がわずかに目を丸くした。
「……そうですか」
「これはもう、殿下のご厚意なしにはなかったことです。何度でも礼を言います」
殿下がしばらく黙った。何かを言いかけて、やめた。また言いかけて——
「……あなたが喜んでくれると、俺も嬉しい」
静かな声だった。
私の胸が、また揺れた。
フェンが私と殿下の間にすっと入って、どかりと座った。いつもの動作だった。でも今日は、少しだけ間が遅かった気がした。
◆
「殿下」
帰り際に、私は声をかけた。
「はい」
「先日、『続きはまた今度』とおっしゃいましたね」
殿下の足が、わずかに止まった。
「……覚えていましたか」
「覚えています。『あなたには特に』と言った後の続きです」
殿下がゆっくりと振り返った。夕陽が逆光になって、表情がよく見えなかった。でも、声は聞こえた。
「……今日は、まだ言えません」
「どうしてですか」
「もう少し、時間をください」
迷いのある声だった。珍しかった。あの殿下が、迷っている。
「……わかりました」
私が答えると、殿下が小さく「ありがとうございます」と言って、今度こそ帰っていった。
◆
フェンが私の隣で、ため息をついた。
「……何を待っているんだ、あの男は」
「私に聞かれても」
「お前はどう思う」
「どう、とは」
「あの男のことが」
私は少し考えた。
嫌いではなかった。むしろ——一緒にいると、不思議と落ち着いた。話すと、自分の考えが整理されていく気がした。計画書のことを思い出すと、今でも胸が温かくなった。
「……好ましいと思っています」
正直に答えた。
フェンが少しの間、黙った。
「……そうか」
それだけ言って、フェンは先に歩き出した。
背中が、少しだけ丸まっているように見えた。気のせいかもしれない。でも私は、急いでその後を追いながら——フェンのことが、とても愛しいと思った。
(第19話へ続く)




