第17話「土を耕す日」
研究所の土地に初めて鍬を入れた日、フェンはずっと私の隣に座っていた。
作業するのは私と、手伝いに来てくれた父の知人の農夫二人だ。フェンは働かない。ただ、どかりと草の上に伏せて、銀色の目でじっと見ていた。
「フェン、邪魔ではないですか」
「邪魔ではない」
「農夫の方が驚いていますよ」
「慣れる」
農夫の一人が恐る恐るフェンに近づいて、「こちらが噂の聖獣様で……?」と言った。フェンが「そうだ」と答えると、その人は深々と頭を下げてそそくさと戻っていった。
私は小さく息をついた。
◆
土を掘り起こすのは、思ったより重労働だった。
鍬を振るうたびに、土の声が聞こえる気がした。加護のせいだろう。この区画は水はけがいい。この辺りは少し粘土質だから、砂を混ぜた方がいい。こっちは日当たりが強いから、乾燥に強い薬草が向いている——
「……何を考えている」
フェンが声をかけてきた。
「土のことを考えています。この辺りはラベンダーが向きそうです。あちらはセージ。端の日陰になるところにはミントを」
「全部言葉で言うな。手を動かせ」
「動かしています」
フェンがふんと鼻を鳴らした。それでも目は、私の手元をずっと追っていた。
◆
昼になると、母が弁当を持って来てくれた。
農夫たちと草の上に座って食べた。フェンも隣に来て、母が用意してくれた分を静かに食べた。昨日の残りの煮物と、握り飯だった。
「美味いか」
「普通だ」
「毎回そう言いますね」
「毎回普通だ」
「……でも毎回きれいに食べますね」
フェンが少し視線をそらした。
「腹が減っていた」
「そうですか」
農夫の一人が遠巻きに見ながら、もう一人に「聖獣って普通に飯食うんだな」と囁いていた。私はそれを聞こえないふりをした。
◆
午後、カイル殿下が馬で来た。
視察、と言っていたが、着いてすぐ上着を脱いで「手伝います」と言った。
「殿下がそんな、わざわざ——」
「俺が提案した土地です。様子を見たい」
殿下が鍬を一本取って、農夫たちの列に加わった。農夫たちが明らかに動揺していたが、殿下は気にせず黙々と作業した。手つきが妙に慣れていた。
「……殿下は、こういった作業をされたことが」
「昔、少し。農村の視察で」
「視察で鍬を?」
「話を聞くより、やった方が早いので」
またさらりと言われた。この人は、いつもこういう言い方をする。
フェンが殿下をじっと見て、それから私を見た。
「……あの男、意外と使える」
私が返事に困っていると、殿下が聞こえていたのか、少しだけ口元を緩めた。
◆
夕方、三人で土地の端に立って、掘り起こした区画を眺めた。
まだ何も植わっていない。ただの茶色い土だった。でも今日一日で、形が変わった。ここに来月には最初の苗を植えられる。
「……思ったより広いですね」
私が言うと、殿下が隣で頷いた。
「最初の区画だけで、かなりの量が栽培できます」
「春になれば、もう少し種類も増やせそうです」
「どんな薬草から始めますか」
「まず解熱と鎮痛に使えるものを。需要が一番高いので」
殿下が小さな手帳に何かを書き留めた。またあの几帳面な字で。
フェンが私と殿下の間に入って、どかりと座った。
「俺もいる」
「わかっています、フェン」
「わかっているならいい」
殿下が苦笑した。もうフェンの割り込みには慣れてきたらしい。
◆
帰り道、フェンが私の隣を歩きながら、ぽつりと言った。
「楽しそうだった」
「……え?」
「今日。お前が楽しそうだった」
私は少し考えた。
楽しかったか。重労働だったし、日に焼けたし、土まみれになった。でも——確かに、何も考えずに体を動かしていた。土の声を聞きながら。フェンが隣にいて。殿下が黙って手伝ってくれて。
「……楽しかったかもしれません」
「そうか」
「フェンは楽しかったですか」
少しの間があった。
「……まあ」
「まあ?」
「うるさい」
フェンが少しだけ歩く速度を上げた。耳の先が、夕陽の中でわずかに赤く見えた。
私はその後ろを追いかけながら、思わず笑った。
何も特別なことのない一日だった。でも、こういう一日が——積み重なっていくのだろうと、初めて思えた気がした。
(第18話へ続く)




