第16話「初めての涙」
王城の一室に通されたのは、午前の光が窓から差し込む時間だった。
応接室というより書斎に近い部屋だった。壁一面に本棚が並び、窓際の机に書類が整然と積まれている。カイル殿下が立ち上がって迎えてくれた。
「来てくれてありがとうございます」
「お招きありがとうございます。……昨日の手紙、ご丁寧に」
「大したことは書いていません」
殿下が少し視線をそらした。照れているというより、あまり触れてほしくなさそうな顔だった。
フェンが私の隣に当然のようにいた。殿下が一瞬フェンを見て、「フェンリルも、ようこそ」と言った。フェンは「うん」とだけ答えた。
◆
「これが、草稿です」
殿下が机の上の書類を渡してくれた。
何枚もあった。きちんと綴じられていて、表紙に「薬草研究所 設立計画 第一稿」と書かれていた。あの几帳面な小さい字で。
私は静かに、一枚目を開いた。
目的と理念。対象とする地域の範囲。想定する薬草の種類と栽培計画。運営体制の案。費用の概算。段階的な拡張スケジュール——
読み進めるほど、胸の中で何かが積み重なっていった。
「……かなり詳しく書いてくださったのですね」
「話を聞いていると、自然と書きたいことが出てきまして」
「これは……殿下お一人で」
「夜に少し時間があったので」
さらりと言われた。夜に。少し時間があったので。
私はまた一枚、めくった。
そこに、こんな一節があった。
「運営方針:薬代を払えない者への対応として、薬草の採集・栽培補助・施設の維持管理などの労働による現物納付を認める。誰もが必要な薬を受け取れる仕組みを、制度として組み込む」
私が帰り道に話したことが、そのまま——丁寧な言葉で、制度として書き起こされていた。
◆
気づいたら、目が熱くなっていた。
おかしいと思った。なぜ泣きそうになるのか、自分でもわからなかった。
ウィレム様が謝りに来ても、泣かなかった。七年間、どれだけつらいことがあっても、泣いた記憶がなかった。
なのに今——誰かが自分の夢を、ちゃんとした言葉にしてくれただけで。
「……エリーゼさん」
殿下が静かに言った。
「大丈夫ですか」
「……はい」
答えながら、声が少しだけ揺れた。
「泣いていいですよ」
「泣いて……いません」
「泣いています」
私はそっと目元に触れた。
濡れていた。
◆
初めてだった。
自分のことで泣くのが。
ウィレム様のために泣いたことはなかった。離縁状を受け取った朝も、七年間の何があっても。
でも今は——誰かが自分の夢を本気で聞いてくれて、夜に時間を使って書き起こしてくれて、「払えない人にも届けたい」という私の言葉を制度として残してくれた。それだけで。
それだけで、泣いてしまった。
「……失礼しました」
私が言うと、殿下が首を横に振った。
「謝らなくていい」
「みっともないです」
「みっともなくない」
殿下が机の引き出しから、きれいに畳まれたハンカチを取り出して、静かに差し出した。
「……用意してあったのですか」
「念のため」
「念のため、とは」
「あなたが泣くかもしれないと思ったので」
私はしばらく、ハンカチを見た。
「……どうしてわかったのですか」
「わかりませんでした。ただ、あなたはずっと泣いていなかった気がしたので」
静かな声だった。
私はハンカチを受け取って、目元を押さえた。
◆
フェンがいつの間にか、私のすぐ隣に来ていた。
大きな頭が、そっと私の膝に乗った。重かった。いつも通り、重かった。
「……フェン」
「何もない」
「何かあります」
「ない」
フェンが目を細めた。
「……泣いていい。ここでは」
その言葉が、また少しだけ目を熱くさせた。
私はフェンの毛に顔を埋めるようにして、しばらくそのままでいた。声は出なかった。ただ、ほんの少しだけ、泣いた。
誰かのために泣いたことはなかった。
今日初めて、自分のために泣いた。
自分の夢を、誰かがちゃんと見てくれていたことへの——涙だった。
◆
落ち着いてから、また計画書の話をした。
殿下の草稿は丁寧で、でも完成ではなかった。「ここはどうしたいですか」「この部分はエリーゼさんの考えを聞いてから決めようと思っていました」と、いくつもの余白が残されていた。
私の言葉が入る場所が、あちこちに用意されていた。
「……殿下は」
「はい」
「最初から、こういうつもりで作ってくださったのですね」
「草稿ですから、たたき台です。あなたが書き直してくれる方が、ずっといいものになります」
「でも」
「でも?」
私はハンカチを少し握りしめた。
「……この計画書は、殿下がいなければ存在しなかった。私一人では、ここまでたどり着けなかった」
殿下がしばらく黙った。
「……あなたがいなければ、書く理由がありませんでした」
静かな声だった。また、迷いがなかった。
私の胸が、また揺れた。今度は違う揺れ方で。
フェンが小さく唸った。聞こえないくらいの、小さな声で。
(第17話へ続く)




