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第16話「初めての涙」

 王城の一室に通されたのは、午前の光が窓から差し込む時間だった。


 応接室というより書斎に近い部屋だった。壁一面に本棚が並び、窓際の机に書類が整然と積まれている。カイル殿下が立ち上がって迎えてくれた。


「来てくれてありがとうございます」


「お招きありがとうございます。……昨日の手紙、ご丁寧に」


「大したことは書いていません」


 殿下が少し視線をそらした。照れているというより、あまり触れてほしくなさそうな顔だった。


 フェンが私の隣に当然のようにいた。殿下が一瞬フェンを見て、「フェンリルも、ようこそ」と言った。フェンは「うん」とだけ答えた。



「これが、草稿です」


 殿下が机の上の書類を渡してくれた。


 何枚もあった。きちんと綴じられていて、表紙に「薬草研究所 設立計画 第一稿」と書かれていた。あの几帳面な小さい字で。


 私は静かに、一枚目を開いた。


 目的と理念。対象とする地域の範囲。想定する薬草の種類と栽培計画。運営体制の案。費用の概算。段階的な拡張スケジュール——


 読み進めるほど、胸の中で何かが積み重なっていった。


「……かなり詳しく書いてくださったのですね」


「話を聞いていると、自然と書きたいことが出てきまして」


「これは……殿下お一人で」


「夜に少し時間があったので」


 さらりと言われた。夜に。少し時間があったので。


 私はまた一枚、めくった。


 そこに、こんな一節があった。


 「運営方針:薬代を払えない者への対応として、薬草の採集・栽培補助・施設の維持管理などの労働による現物納付を認める。誰もが必要な薬を受け取れる仕組みを、制度として組み込む」


 私が帰り道に話したことが、そのまま——丁寧な言葉で、制度として書き起こされていた。



 気づいたら、目が熱くなっていた。


 おかしいと思った。なぜ泣きそうになるのか、自分でもわからなかった。


 ウィレム様が謝りに来ても、泣かなかった。七年間、どれだけつらいことがあっても、泣いた記憶がなかった。


 なのに今——誰かが自分の夢を、ちゃんとした言葉にしてくれただけで。


「……エリーゼさん」


 殿下が静かに言った。


「大丈夫ですか」


「……はい」


 答えながら、声が少しだけ揺れた。


「泣いていいですよ」


「泣いて……いません」


「泣いています」


 私はそっと目元に触れた。


 濡れていた。



 初めてだった。


 自分のことで泣くのが。


 ウィレム様のために泣いたことはなかった。離縁状を受け取った朝も、七年間の何があっても。


 でも今は——誰かが自分の夢を本気で聞いてくれて、夜に時間を使って書き起こしてくれて、「払えない人にも届けたい」という私の言葉を制度として残してくれた。それだけで。


 それだけで、泣いてしまった。


「……失礼しました」


 私が言うと、殿下が首を横に振った。


「謝らなくていい」


「みっともないです」


「みっともなくない」


 殿下が机の引き出しから、きれいに畳まれたハンカチを取り出して、静かに差し出した。


「……用意してあったのですか」


「念のため」


「念のため、とは」


「あなたが泣くかもしれないと思ったので」


 私はしばらく、ハンカチを見た。


「……どうしてわかったのですか」


「わかりませんでした。ただ、あなたはずっと泣いていなかった気がしたので」


 静かな声だった。


 私はハンカチを受け取って、目元を押さえた。



 フェンがいつの間にか、私のすぐ隣に来ていた。


 大きな頭が、そっと私の膝に乗った。重かった。いつも通り、重かった。


「……フェン」


「何もない」


「何かあります」


「ない」


 フェンが目を細めた。


「……泣いていい。ここでは」


 その言葉が、また少しだけ目を熱くさせた。


 私はフェンの毛に顔を埋めるようにして、しばらくそのままでいた。声は出なかった。ただ、ほんの少しだけ、泣いた。


 誰かのために泣いたことはなかった。


 今日初めて、自分のために泣いた。


 自分の夢を、誰かがちゃんと見てくれていたことへの——涙だった。



 落ち着いてから、また計画書の話をした。


 殿下の草稿は丁寧で、でも完成ではなかった。「ここはどうしたいですか」「この部分はエリーゼさんの考えを聞いてから決めようと思っていました」と、いくつもの余白が残されていた。


 私の言葉が入る場所が、あちこちに用意されていた。


「……殿下は」


「はい」


「最初から、こういうつもりで作ってくださったのですね」


「草稿ですから、たたき台です。あなたが書き直してくれる方が、ずっといいものになります」


「でも」


「でも?」


 私はハンカチを少し握りしめた。


「……この計画書は、殿下がいなければ存在しなかった。私一人では、ここまでたどり着けなかった」


 殿下がしばらく黙った。


「……あなたがいなければ、書く理由がありませんでした」


 静かな声だった。また、迷いがなかった。


 私の胸が、また揺れた。今度は違う揺れ方で。


 フェンが小さく唸った。聞こえないくらいの、小さな声で。


(第17話へ続く)

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