第149話「二人の朝」
結婚式の翌朝、私はいつもより早く目を覚ました。
隣を見ると、カイルがまだ静かに眠っている。窓から差し込む朝の光が、彼の頬に淡い影を落としていた。
——昨日、私はこの人の妻になった。
そう思うと、胸の奥がじんわりと温かくなった。
◆
七年前、独りきりで屋敷を出た朝のことを、ふと思い出した。
あのときの私は、涙も言葉も、何もかもを失っていた。もう二度と、朝が待ち遠しいと思う日など来ない、そう信じきっていた。
それが、どうだろう。
今は、隣で眠る人の寝息が愛おしくて、目覚めた瞬間から胸がいっぱいになっている。
私はそっと手を伸ばして、カイルの前髪に触れた。
「……起こしてしまいましたか」
低い声がして、彼の目がゆっくりと開いた。
「いいえ。私が、勝手に見ていただけです」
そう答えると、カイルはわずかに目を細めた。彼のこういう、言葉にならない笑い方を、私は何よりも好きだと思う。
◆
「おはよう」
「おはようございます」
たったそれだけの言葉が、どうしてこんなに特別に響くのだろう。
カイルの手が、私の髪をそっと梳いた。大きくて、少し節くれだった手だ。剣を握り、薬草の土を耕してきた手。
その手のあたたかさに、私は静かに目を閉じた。
「夢みたいです」
思わず、そう零していた。
「夢じゃない」
カイルは短く言って、私の額に唇を寄せた。
「これからは、毎朝こうだ」
その一言が、七年分の孤独を、静かに溶かしていくようだった。
◆
支度を整えて居間へ降りると、香ばしい匂いが漂っていた。
「あ! 起きてきた!」
ナーシャが振り返って、頬を上気させた。マーサさんとミラさんが、朝食の支度をしてくれている。
「今日くらい、ゆっくり寝ていてくださってよかったのに」とマーサさんが笑う。
「いえ。もう、目が覚めてしまって」
私が答えると、三人は顔を見合わせて微笑んだ。その優しい眼差しに、また胸が熱くなる。
テーブルには、焼きたてのパンと、庭で採れた野菜のスープ。それから、私の育てた薬草を使ったお茶が湯気を立てていた。
◆
「フェンは、まだですか」
私が尋ねると、ナーシャが窓の外を指さした。
「さっきから、薬草園にいます。なんだか……いつもより静かで」
窓越しに目をやると、白銀の大きな身体が、朝日の中に佇んでいた。
フェンは薬草園の真ん中に伏せて、じっと空を見上げている。その背に朝の光が降りて、毛並みがきらきらと輝いていた。
私はスープの匙を置いて、外へ出た。
◆
「フェン」
呼びかけると、金色の瞳がこちらを向いた。
「起きたか」
いつものぶっきらぼうな声。けれど、どこか少し寂しげに聞こえたのは、気のせいだろうか。
私はその隣に腰を下ろして、あたたかな毛並みに頬を寄せた。ふわりと、朝露と陽だまりの匂いがした。
「昨日は、ありがとうございました。私を祭壇まで送ってくれて」
「……礼を言うことじゃない」
フェンはそっぽを向いたまま、低く唸った。
「お前が、幸せなら。それでいい」
◆
その横顔を見て、私はやっと気づいた。
フェンは寂しかった。
数百年ぶりに見つけた「真の伴侶」が、別の人の腕の中で笑うようになった。その幸せを誰より願いながら、同時に、少しだけ胸が空いてしまっている。
私は、大きな身体にぎゅっと腕を回した。
「フェン。私、あなたの家族です。ずっと」
「……」
「妻になっても、それは変わりません。毎朝、あなたに『おはよう』を言いに来ます」
◆
フェンはしばらく黙っていた。
やがて、大きな頭を、私の肩にぐっと押し当ててきた。ずしりとした重みと、あたたかさ。
「……調子のいいやつめ」
そう言う声が、ほんの少し湿っていた気がした。
私は笑って、その首筋を撫でた。フェンの尻尾が、地面をぱたりと一度、叩いた。
「一緒に、朝ごはんにしましょう。今日は、あなたの好きなお肉もあります」
「……肉か」
途端に耳がぴんと立つのがおかしくて、私はまた笑ってしまった。
◆
居間に戻ると、カイルが出迎えてくれた。
私とフェンを見て、彼は何も言わず、ただ静かに頷いた。すべてを分かっている、という顔だった。
朝の食卓に、みんなの笑い声が満ちていく。
窓の外では、薬草園が朝露に光り、遠くの村から鐘の音が響いていた。
——七年前には、想像もできなかった朝。
私は今、たしかにここにいる。愛する人と、大切な家族に囲まれて。
新しい暮らしの、はじまりの朝だった。
(第150話へ続く)




