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第149話「二人の朝」

 結婚式の翌朝、私はいつもより早く目を覚ました。


 隣を見ると、カイルがまだ静かに眠っている。窓から差し込む朝の光が、彼の頬に淡い影を落としていた。


 ——昨日、私はこの人の妻になった。


 そう思うと、胸の奥がじんわりと温かくなった。



 七年前、独りきりで屋敷を出た朝のことを、ふと思い出した。


 あのときの私は、涙も言葉も、何もかもを失っていた。もう二度と、朝が待ち遠しいと思う日など来ない、そう信じきっていた。


 それが、どうだろう。


 今は、隣で眠る人の寝息が愛おしくて、目覚めた瞬間から胸がいっぱいになっている。


 私はそっと手を伸ばして、カイルの前髪に触れた。


「……起こしてしまいましたか」


 低い声がして、彼の目がゆっくりと開いた。


「いいえ。私が、勝手に見ていただけです」


 そう答えると、カイルはわずかに目を細めた。彼のこういう、言葉にならない笑い方を、私は何よりも好きだと思う。



「おはよう」


「おはようございます」


 たったそれだけの言葉が、どうしてこんなに特別に響くのだろう。


 カイルの手が、私の髪をそっと梳いた。大きくて、少し節くれだった手だ。剣を握り、薬草の土を耕してきた手。


 その手のあたたかさに、私は静かに目を閉じた。


「夢みたいです」


 思わず、そう零していた。


「夢じゃない」


 カイルは短く言って、私の額に唇を寄せた。


「これからは、毎朝こうだ」


 その一言が、七年分の孤独を、静かに溶かしていくようだった。



 支度を整えて居間へ降りると、香ばしい匂いが漂っていた。


「あ! 起きてきた!」


 ナーシャが振り返って、頬を上気させた。マーサさんとミラさんが、朝食の支度をしてくれている。


「今日くらい、ゆっくり寝ていてくださってよかったのに」とマーサさんが笑う。


「いえ。もう、目が覚めてしまって」


 私が答えると、三人は顔を見合わせて微笑んだ。その優しい眼差しに、また胸が熱くなる。


 テーブルには、焼きたてのパンと、庭で採れた野菜のスープ。それから、私の育てた薬草を使ったお茶が湯気を立てていた。



「フェンは、まだですか」


 私が尋ねると、ナーシャが窓の外を指さした。


「さっきから、薬草園にいます。なんだか……いつもより静かで」


 窓越しに目をやると、白銀の大きな身体が、朝日の中に佇んでいた。


 フェンは薬草園の真ん中に伏せて、じっと空を見上げている。その背に朝の光が降りて、毛並みがきらきらと輝いていた。


 私はスープの匙を置いて、外へ出た。



「フェン」


 呼びかけると、金色の瞳がこちらを向いた。


「起きたか」


 いつものぶっきらぼうな声。けれど、どこか少し寂しげに聞こえたのは、気のせいだろうか。


 私はその隣に腰を下ろして、あたたかな毛並みに頬を寄せた。ふわりと、朝露と陽だまりの匂いがした。


「昨日は、ありがとうございました。私を祭壇まで送ってくれて」


「……礼を言うことじゃない」


 フェンはそっぽを向いたまま、低く唸った。


「お前が、幸せなら。それでいい」



 その横顔を見て、私はやっと気づいた。


 フェンは寂しかった。


 数百年ぶりに見つけた「真の伴侶」が、別の人の腕の中で笑うようになった。その幸せを誰より願いながら、同時に、少しだけ胸が空いてしまっている。


 私は、大きな身体にぎゅっと腕を回した。


「フェン。私、あなたの家族です。ずっと」


「……」


「妻になっても、それは変わりません。毎朝、あなたに『おはよう』を言いに来ます」



 フェンはしばらく黙っていた。


 やがて、大きな頭を、私の肩にぐっと押し当ててきた。ずしりとした重みと、あたたかさ。


「……調子のいいやつめ」


 そう言う声が、ほんの少し湿っていた気がした。


 私は笑って、その首筋を撫でた。フェンの尻尾が、地面をぱたりと一度、叩いた。


「一緒に、朝ごはんにしましょう。今日は、あなたの好きなお肉もあります」


「……肉か」


 途端に耳がぴんと立つのがおかしくて、私はまた笑ってしまった。



 居間に戻ると、カイルが出迎えてくれた。


 私とフェンを見て、彼は何も言わず、ただ静かに頷いた。すべてを分かっている、という顔だった。


 朝の食卓に、みんなの笑い声が満ちていく。


 窓の外では、薬草園が朝露に光り、遠くの村から鐘の音が響いていた。


 ——七年前には、想像もできなかった朝。


 私は今、たしかにここにいる。愛する人と、大切な家族に囲まれて。


 新しい暮らしの、はじまりの朝だった。


(第150話へ続く)

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