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第146話「結婚式の前夜」

 結婚式まで、あと一日。


 いよいよ明日、私はカイルの妻になる。


 その実感が、今になってじわじわと胸に押し寄せてきた。



 研究所は一日中慌ただしかった。


 薬草園には白い天幕が張られ、テーブルには真新しい布が掛けられた。


 マーサさんとミラさんは台所で、明日のごちそうの仕込みに追われていた。



「せんせい! ここにお花飾る?」とルカが花籠を抱えて駆け回った。


「ええ、お願いします」と私は微笑んだ。


 ナーシャは薬草園の垣根に、色とりどりの野の花を結びつけていた。



 みんなが私のために、こんなにも心を尽くしてくれている。


 その光景を眺めながら、私は胸が温かくなった。


 ——七年前のあの朝、独りで白磁のカップを握りしめていた私には、想像もできなかった光景だった。



 夜。


 準備が一段落して、みんながそれぞれの部屋へ戻った後。


 私はなぜか眠れずに、そっと縁側へ出た。



 縁側では、フェンが月を見上げていた。


「眠れんのか」とフェンはこちらを見ずに言った。


「……はい」と私はその隣に腰を下ろした。「なんだか胸がそわそわして」



「当たり前だ」とフェンはふっと笑った。「明日はお前の門出だからな」


 秋の夜風が、二人の間を静かに通り抜けた。


 フェンの温かい毛並みが、月明かりの中で銀色に光っていた。



「フェン」と私はそっとその毛並みに手を置いた。「覚えていますか。——初めてあなたに拾われた日のこと」


「ああ」とフェンは目を細めた。「雪の降る日だった。お前は森で倒れていた」



「あの時の私は」と私は静かに言った。「もう生きる意味などないと、そう思っていました」


「知っている」とフェンは言った。「泣くことも忘れた目をしていた」



「それが今は」と私は月を見上げた。「明日、結婚式を挙げるのです。——温かい人たちに囲まれて」


「フェン。あなたがあの日、私を拾ってくれたから」と私は言った。「私は今、ここにいます」



 フェンはしばらく黙っていた。


 やがて、その大きな頭を私の肩にそっと押し当てた。


「……礼を言うのは」とフェンは静かに言った。「俺の方だ、エリーゼ」



「え……?」と私は彼を見た。


「俺は長く生きすぎた聖獣だ」とフェンは言った。「加護を与えるだけの、ただの道具のような存在だと、そう思っていた」



「だが、お前が来て」とフェンは目を閉じた。「俺に教えてくれた。——温もりを。もふもふを。家族というものを」


「お前は俺の余生を、宝物に変えてくれた」



 その言葉に、私はこらえきれずにフェンの毛並みに顔を埋めた。


「フェン……」と私は震える声で言った。「ずっと一緒にいてくださいね」


 フェンは答えなかった。


 ただ優しく、私の背にその大きな身体を寄せてくれた。



 どれくらいそうしていただろう。


 ふと背後から、足音が聞こえた。


「……起きていたのか」


 振り返ると、カイルが立っていた。



「カイル」と私は慌てて涙を拭った。「あなたも眠れないのですか」


「ああ」とカイルは隣に腰を下ろした。「明日のことを思うと、胸がいっぱいで」


 その素直な言葉に、私は思わず微笑んだ。



 三人で月を見上げた。


 フェンとカイルと私。——不思議な家族だった。


 でも、この静かな夜がたまらなく愛おしかった。



「なあ、フェン」とカイルが口を開いた。「明日、エリーゼを頼む」


「ん?」とフェンが片目を開けた。


「花嫁を送り出す役は」とカイルは言った。「本来、父親の務めだ。だが、エリーゼにはもう家族がいない」


「だから」とカイルはフェンを見た。「あんたに頼みたい。——エリーゼを俺の元へ送り出してやってほしい」



 フェンはしばらくカイルを見つめた。


 そして、ゆっくりと頷いた。


「……いいだろう」とフェンは言った。「この聖獣が責任を持って、——大切な娘をお前の元へ送り届けてやる」



 娘。


 その言葉に、私はまた涙がこみ上げた。


 血の繋がりはない。けれど、フェンは確かに私の家族だった。父のような存在だった。



「フェン……」と私はつぶやいた。「ありがとうございます」


「泣くな」とフェンはふっと笑った。「明日、目が腫れるぞ」


 そのいつもの軽口に、私は涙ながらに笑った。



 結婚式まで、あと一日。


 三人で見上げた秋の月は、どこまでも澄んで、優しく輝いていた。


 ——明日、私は新しい人生を始める。


 愛する人と、大切な家族と共に。


 私はフェンの温かい毛並みに寄り添いながら、静かにその夜が更けていくのを感じていた。


(第147話へ続く)

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