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敵を救う

 国王陛下の宣言と共に。


 夜会はいよいよ佳境に入った。


 そして、その時を待っていたかのように、ハーグレイヴ侯爵が一歩前に進み出た。



「皆様」と、侯爵は声を張り上げた。「お聞きください。この女――エリーゼなる者は、夫に愛想を尽かされ離縁された女。実家は没落し、今や後ろ盾もありません」


 広間がざわめいた。


「そのような素性の者を」と侯爵は続けた。「我らが王家の一員として迎えると? ――とんでもない。王家の品位を貶める暴挙です!」



 侯爵の言葉に、一度は和らいだ空気が再びざわつき始めた。


 でも――私はひるまなかった。


「侯爵様」と私は静かに口を開いた。「私の過去はすべて事実です。隠しはしません。――ですが、過去が人の価値を決めるとは私は思いません」



「ほう?」と侯爵は嘲笑った。「では、何が決めると? まさか下町の貧民どもの戯言かね?」


「人の価値は」と私は言った。「その人が何をするか。――どう生きるかで決まります」


「綺麗事を!」と侯爵が声を荒げた。「そんなものは――」



 その時だった。


 侯爵の言葉が、ふいに途切れた。


「ぐ……っ」


 侯爵が胸を押さえ、顔を歪めた。そして――どさりと、その場に崩れ落ちた。



「侯爵!」「侯爵様!」


 広間が騒然となった。


 侯爵は白目を剥き、口から泡を吹いていた。痙攣する身体――一刻を争う容態だった。



「お父様!」


 令嬢が悲鳴を上げて駆け寄った。


 先ほどまでの余裕の笑みは消え失せ、ただ青ざめた顔で父の身体にすがりついた。


「お父様、しっかり! 誰か! 誰か、助けて!」


 でも――居並ぶ貴族たちは誰も動けなかった。ただおろおろするばかり。



 王の抱える侍医たちが駆け寄った。


 だが彼らもおろおろするばかりで、「こ、これは……」「ど、どうすれば……」と手をこまねいていた。


 そのありさまに、私の中で薬師としての本能が叫んだ。



 私は迷わず駆け寄った。


 ドレスの裾が汚れることも、相手が私を貶めようとした男であることも――一切関係なかった。


「どいてください!」と私は侍医たちを押しのけた。「私が診ます!」



 広間がどよめいた。


「な、なぜあの女が……」「自分を侮辱した相手を……?」


 でも、私の頭の中にはもう目の前の命のことしかなかった。



 私は侯爵の状態を素早く確かめた。


 脈。呼吸。瞳孔。――卒中だ。血の道が詰まりかけている。


 私は胸元から常に持ち歩いている薬包を取り出した。


「これを――舌の下に」と私は侯爵の口を開け、薬を含ませた。「血を巡らせ、発作を抑える薬です」



 私は侯爵の身体を横向きにし、気道を確保した。襟元を緩め、呼吸を楽にする。


 手のひらで胸をさすり、血の巡りを促す。


 額に汗を滲ませながら、私は必死に手を動かし続けた。


 広間中が固唾を呑んで見守っていた。



 その中に――カイルがいた。


 彼は私を止めなかった。心配そうに、でもどこか誇らしげに、ただじっと私を見守っていた。


 「あなたなら、できる」と、そのまなざしが語っていた。


 そして、玉座の王も身を乗り出すように、私の一挙手一投足を鋭く見つめていた。



 やがて――侯爵の痙攣が収まってきた。


 荒かった呼吸が少しずつ落ち着いていく。


 白目を剥いていた目に、意識の光が戻り始めた。


「……う、ぐ……」と侯爵がうめいた。



「峠は越えました」と私は額の汗を拭い、言った。「すぐに安静な場所へ。――温めて休ませてください。命は助かります」


 その言葉に、広間に安堵のため息が広がった。



 令嬢が崩れるように父の傍に座り込んだ。


「お父様……よかった……」と、ぼろぼろと涙をこぼす。


 そして令嬢は、信じられないというように私を見た。


「あなた……どうして……私たちは、あなたをあんなにひどく……」


 その目には、もう敵意はなかった。ただ戸惑いと、深い羞恥が滲んでいた。


「お気になさらず」と私は静かに言った。「お父様を大切に。――そばにいて差し上げてください」



 誰かが震える声で聞いた。


「エリーゼ殿……なぜです。あの方はあなたを、あれほど侮辱したのに。――なぜ助けたのですか」



 私はゆっくりと立ち上がり、言った。


「薬師に――敵も味方もありません」


 その声は静かだったが、広間の隅々まで届いた。


「目の前に苦しむ人がいれば、手を伸ばす。――それが誰であろうと。私はただそれだけをしてきました。今日も。これからも」



 しん、と静まり返った広間。


 やがて――ぱち、ぱちと、どこからか拍手が起こった。


 それは瞬く間に広がり、大広間は割れんばかりの拍手に包まれた。


「なんと気高い……」「あれが本物の薬師か……」


 侮蔑の色は、もうどこにもなかった。



 私はふと自分の手を見た。


 誰かの命を救った手。――七年前、何の価値もないと思い込んでいたこの手が。


 今、こんなにも多くの心を動かしている。


 誇らしさと、静かな感謝が、じわりと胸に満ちた。フェンが与えてくれたこの道は、間違っていなかった。



 玉座の王が、ゆっくりと立ち上がった。


 その視線が、まっすぐ私を捉える。


 広間のすべての視線が、王と私に集まった。


 張り詰めた静寂。誰も息をすることすら忘れたように。


 ――さあ。王は何を告げるのか。


 私は汚れたドレスのまま、それでも背筋を伸ばし、まっすぐその目を見つめ返した。


 逃げない。うつむかない。――私は私の生き方を貫いた。あとは王の言葉を待つだけ。


 長い、長い夜会が、今、結末を迎えようとしていた。


(第140話へ続く)

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