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マーサ来たる

 王城からの帰り道。


 私はまっすぐ研究所へと向かった。


 数日ぶりの我が家。早く——フェンの顔が見たかった。



 門をくぐると、ナーシャが駆けてきた。


「先生! おかえりなさい!」


 一足先に帰っていたナーシャが、私の無事を確かめるように抱きついてきた。


 そして縁側を見ると——フェンがこちらを見ていた。



「……遅かったな」とフェンはぶっきらぼうに言った。


「ただいま、フェン」と私はその傍に駆け寄った。


 フェンの毛並みに顔を寄せる。もふもふのぬくもり。


「心配しましたか」と私は聞いた。


「……していない」とフェンは顔を背けた。「ただ、お前がいないと。——研究所が静かで調子が狂うだけだ」


 その素直じゃない言い方に、私は笑ってしまった。



 私は二人に王城でのことを話した。


 国王陛下に会ったこと。ハーグレイヴ侯爵の中傷。そして——夜会で貴族たちに認めさせなければならないこと。


「貴族の品定めか」とフェンは鼻を鳴らした。「くだらん。——だが、お前ならやれる」



「でも……夜会なんて」とナーシャが不安そうに言った。「私、お貴族様の作法なんてわかりません。先生を手伝えない……」


「ナーシャ」と私はその頭を撫でた。「あなたはここで待っていてくれるだけで十分です。——帰る場所があると思えるから、私は頑張れるのです」



 その時だった。


 門の方から遠慮がちな声が聞こえた。


「あの……こちらに、エリーゼお嬢様は……」


 その声に、私ははっと振り返った。


 聞き覚えのある声。——まさか。



 門の前に立っていたのは——マーサさんだった。


 小さな旅行鞄を手に、少し緊張した面持ちで。


「マーサさん!」と私は駆け寄った。「来てくださったのですね!」


「はい」とマーサさんは目を潤ませた。「あちらのご用も、ようやく片付きまして。——それに」



「夜会のお話を聞きまして」とマーサさんは言った。「お嬢様が貴族の方々の前で試される、と。——居ても立ってもいられず、飛んで参りました」


「どうして、それを……」


「噂は王都じゅうに広まっております」とマーサさんは微笑んだ。「『下町を救った薬師が、王家に迎えられるか夜会で問われる』と。——みんな、お嬢様を応援しておりますよ」



 私は胸が熱くなった。


 知らないところで、こんなにも多くの人が私を想ってくれている。


「マーサさん」と私は言った。「実は困っていたのです。夜会の作法も、ドレスも。——私にはわからないことが多すぎて」



「お任せください」とマーサさんはきっぱりと言った。「これでも長年、貴族の家に仕えて参りました。作法も礼儀も、ドレスの着こなしも。——お嬢様にお教えできることは、すべてお教えいたします」


「本当ですか!」


「ええ」とマーサさんは力強く頷いた。「夜会で誰にも後ろ指を指させません。——お嬢様を誰よりも美しく気高い淑女に仕立ててみせます」



 その頼もしい言葉に、私の不安がすうっと和らいだ。


 一人ではわからなかった貴族の世界。


 でも——マーサさんがいれば、きっと大丈夫。



「あの、マーサさん!」とナーシャが目を輝かせて割り込んできた。「先生から聞きました! スープが得意な人だって!」


「まあ」とマーサさんが目を丸くした。「ええ、得意ですよ」


「私に教えてください!」とナーシャがはしゃいだ。「美味しいスープの作り方!」


「ふふ、いいですとも」とマーサさんが優しく笑った。


 二人はすぐに打ち解けた。やはり気が合うようだった。



 縁側のフェンが、マーサさんをじっと見ていた。


「……お前」とフェンが言った。「エリーゼを、あの冷たい家で支えた女だな」


「は、はい」とマーサさんがフェンの言葉に驚いた。「聖獣様……でいらっしゃいますか」


「ふん」とフェンは言った。「礼を言っておく。——お前がいたから、エリーゼは壊れずに済んだ。——よく守ってくれた」



 その言葉に、マーサさんは深々と頭を下げた。


「もったいないお言葉です」とマーサさんは声を震わせた。「私は何も……ただ、見ていることしかできませんでした」


「それで十分だ」とフェンは言った。「——さあ、上がれ。ここが今日から、お前の家だ」



 こうして——マーサさんが研究所に加わった。


 フェン。ナーシャ。そして、マーサさん。


 少しずつ増えていく私の家族。


 かつて独りだった私の周りに、今はこんなにも温かい人たちがいる。



 その夜から、夜会に向けた特訓が始まった。


 お辞儀の角度。歩き方。扇の使い方。会話の作法。


 マーサさんの指導は厳しくも温かかった。



 最初はぎこちなかった私の所作も、日が経つにつれ少しずつ様になっていった。


 ある日、マーサさんが仕立ててくれたドレスを初めてまとった時。


 鏡に映った自分の姿に——私は思わず息を呑んだ。


「……これが、私?」


 淡い空色のドレス。控えめだが気品のある装い。そこに立っていたのは、見知らぬ淑女だった。



「お似合いです、お嬢様」とマーサさんが目を細めた。


 そして——ふいに、その目から涙がこぼれた。


「七年前の……あの、うつむいていたお嬢様が。——こんなに立派に、おなりになって」


「マーサさん……」


「私はずっと心配でした」とマーサさんは言った。「あの家を出られた後、お嬢様がどこかで独り泣いていないかと。——でも今、こうしてお嬢様の笑顔を見られて。本当に……本当によかった」



「私がここまで来られたのは」と私はその手を握った。「あの冷たい家で、あなたがくれた優しさが——心の支えだったからです」


「お嬢様……」


「だから今度は」と私は微笑んだ。「私があなたを幸せにします。——ずっとここにいてくださいね」


 マーサさんはもう言葉にならず、ただ何度も頷いていた。



 窓辺では、フェンが貝殻と花の冠の隣で、その様子を見守っていた。


 ——大丈夫。私は独りじゃない。


 みんなと一緒なら、どんな夜会も乗り越えられる。そう確信していた。


(第138話へ続く)

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