下町へ
王城から戻って数日が過ぎた頃。
研究所に王都からの急報が届いた。
——王都の下町で熱病が流行り始めている、と。
◆
知らせを持ってきたのは、息を切らせた若い男だった。
「薬師様……どうか、お力を」と男は言った。「下町で高い熱の病が……次々と人が倒れて……」
「お医者は」と私は聞いた。
「お貴族様のお医者は……下町になど来てはくれません」と男はうつむいた。
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その言葉に、私の胸が痛んだ。
貧しい者には薬も医者も届かない。
——それは、かつての私がいた世界と地続きの痛みだった。
「わかりました」と私は迷わず言った。「すぐに参ります」
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準備をしていると——カイルが来た。
知らせを聞きつけたのだろう。その顔は、わずかに曇っていた。
「エリーゼ」とカイルは言った。「行くつもりですか」
「ええ」と私は言った。
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「危険です」とカイルは言った。「流行り病はうつるかもしれない。それに——今のあなたは立場が微妙な時です。下町に入り浸れば、貴族たちがそれを口実にあなたを貶めるかもしれない」
「……」
「ハーグレイヴ侯爵なら」とカイルは言った。「『卑しい者と馴れ合う女』と言いふらすでしょう」
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私はしばらく考えた。
でも——答えは決まっていた。
「カイル」と私はまっすぐ彼を見て言った。「困っている人が目の前にいるのに、見捨てて自分の立場を守る。——そんな人に、私はなりたくありません」
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「それで貴族に嫌われるなら」と私は言った。「それでも構いません。私は——私のやり方で進むと決めたのです。困っている人に手を伸ばす。それが私です」
カイルは、しばらく私を見ていた。
そして——ふっと表情を緩めた。
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「……あなたは本当に変わらないな」とカイルは言った。「わかりました。——では、私もできる限りの支援をします。護衛と物資を手配しましょう」
「カイル……」
「あなたを止めることはできない」とカイルは微笑んだ。「なら、支えるしかないでしょう」
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縁側で話を聞いていたフェンが口を開いた。
「行ってこい、エリーゼ」とフェンは言った。「お前はそういう女だ。——それが、お前の強さだ」
「フェン……ありがとう」
「ただし」とフェンは言った。「無理はするな。——お前が倒れたら元も子もない。ちゃんと帰ってこい」
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「先生!」とナーシャが声を上げた。「私も連れていってください!」
「ナーシャ……」
「私、もう見習いじゃありません」とナーシャは真剣な顔で言った。「先生に教わったこと。——困っている人のために使いたいんです」
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その、まっすぐな目を見て。私は頷いた。
「わかりました」と私は言った。「一緒に行きましょう。——あなたの力が必要です」
「はい!」とナーシャの顔が輝いた。
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翌朝。
私とナーシャは薬と道具を馬車に積み込み、王都へと向かった。
下町に着くと——そこには想像以上の光景が広がっていた。
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狭い路地にひしめく粗末な家々。
その、あちこちから——苦しげなうめき声が漏れていた。
熱に浮かされた子供。看病に疲れ果てた母親。道端に力なく座り込む老人。
まるで——町全体が病に沈んでいるようだった。
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「……ひどい」とナーシャが息を呑んだ。
「ええ」と私は言った。「でも——だからこそ、私たちが来たのです」
私は袖をまくり上げた。
「始めましょう、ナーシャ。——一人でも多くの命を救うために」
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私たちは広場の片隅にござを敷き、急ごしらえの診療所を作った。
最初は——人々は遠巻きに私たちを見ていた。
立派な身なりの女が何をしに来たのか。そんな警戒の目だった。
でも私は構わず、一番近くで倒れている老人に駆け寄った。
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「大丈夫ですか」と私はその額に手を当てた。
熱い。かなりの高熱だった。
私は丁寧に症状を調べた。熱、喉の腫れ、発疹。——そして気づいた。
「ナーシャ」と私は言った。「この病、川の水が原因かもしれません。みんな同じ井戸の水を使っているはず」
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「じゃあ……」とナーシャがはっとした。
「ええ」と私は言った。「水を煮沸させて飲ませること。それと、熱と炎症を抑える薬湯を。——急ぎましょう」
私たちはすぐに薬を煎じ始めた。
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一人、また一人。
倒れた人に薬湯を飲ませ、汗を拭い、水を煮沸するよう伝えて回る。
ナーシャも必死だった。小さな手で薬を調合し、患者の口に運ぶ。その手つきは、もう立派な薬師のものだった。
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やがて——最初に薬を飲んだ老人の熱が、少し引いてきた。
「……楽になった」と老人がかすれた声で言った。「ありがとう……ありがとうございます……」
その言葉が——遠巻きに見ていた人々の空気を変えた。
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「本物の薬師様だ……!」
誰かがそう叫んだ。
とたんに人々が私たちのもとへ押し寄せてきた。「うちの子も!」「母さんを診てくれ!」——すがるような声、声、声。
「落ち着いて」と私は言った。「一人ずつ、必ず診ます。——誰も見捨てません」
◆
日が暮れるまで、私たちは休む間もなく働き続けた。
何十人もの患者を診て、薬を配り、水の煮沸を教えて回った。
夜になる頃には——私もナーシャも、くたくたになっていた。
でも——救えた命が、確かにあった。それが何よりの力になった。
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こうして、私たちの長い戦いが始まった。
貴族の評判も、立場も、今は関係なかった。
ただ、目の前の苦しむ人を一人ずつ救っていく。
それが——私にできる唯一のことだった。
そして私は、まだ知らなかった。
この下町での日々が——やがて王都じゅうに、ある噂を広げていくことを。「貴族にも見捨てられた民を救う薬師がいる」と。
秋の冷たい風が、下町を吹き抜けていった。
(第134話へ続く)




