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下町へ

 王城から戻って数日が過ぎた頃。


 研究所に王都からの急報が届いた。


 ——王都の下町で熱病が流行り始めている、と。



 知らせを持ってきたのは、息を切らせた若い男だった。


「薬師様……どうか、お力を」と男は言った。「下町で高い熱の病が……次々と人が倒れて……」


「お医者は」と私は聞いた。


「お貴族様のお医者は……下町になど来てはくれません」と男はうつむいた。



 その言葉に、私の胸が痛んだ。


 貧しい者には薬も医者も届かない。


 ——それは、かつての私がいた世界と地続きの痛みだった。


「わかりました」と私は迷わず言った。「すぐに参ります」



 準備をしていると——カイルが来た。


 知らせを聞きつけたのだろう。その顔は、わずかに曇っていた。


「エリーゼ」とカイルは言った。「行くつもりですか」


「ええ」と私は言った。



「危険です」とカイルは言った。「流行り病はうつるかもしれない。それに——今のあなたは立場が微妙な時です。下町に入り浸れば、貴族たちがそれを口実にあなたを貶めるかもしれない」


「……」


「ハーグレイヴ侯爵なら」とカイルは言った。「『卑しい者と馴れ合う女』と言いふらすでしょう」



 私はしばらく考えた。


 でも——答えは決まっていた。


「カイル」と私はまっすぐ彼を見て言った。「困っている人が目の前にいるのに、見捨てて自分の立場を守る。——そんな人に、私はなりたくありません」



「それで貴族に嫌われるなら」と私は言った。「それでも構いません。私は——私のやり方で進むと決めたのです。困っている人に手を伸ばす。それが私です」


 カイルは、しばらく私を見ていた。


 そして——ふっと表情を緩めた。



「……あなたは本当に変わらないな」とカイルは言った。「わかりました。——では、私もできる限りの支援をします。護衛と物資を手配しましょう」


「カイル……」


「あなたを止めることはできない」とカイルは微笑んだ。「なら、支えるしかないでしょう」



 縁側で話を聞いていたフェンが口を開いた。


「行ってこい、エリーゼ」とフェンは言った。「お前はそういう女だ。——それが、お前の強さだ」


「フェン……ありがとう」


「ただし」とフェンは言った。「無理はするな。——お前が倒れたら元も子もない。ちゃんと帰ってこい」



「先生!」とナーシャが声を上げた。「私も連れていってください!」


「ナーシャ……」


「私、もう見習いじゃありません」とナーシャは真剣な顔で言った。「先生に教わったこと。——困っている人のために使いたいんです」



 その、まっすぐな目を見て。私は頷いた。


「わかりました」と私は言った。「一緒に行きましょう。——あなたの力が必要です」


「はい!」とナーシャの顔が輝いた。



 翌朝。


 私とナーシャは薬と道具を馬車に積み込み、王都へと向かった。


 下町に着くと——そこには想像以上の光景が広がっていた。



 狭い路地にひしめく粗末な家々。


 その、あちこちから——苦しげなうめき声が漏れていた。


 熱に浮かされた子供。看病に疲れ果てた母親。道端に力なく座り込む老人。


 まるで——町全体が病に沈んでいるようだった。



「……ひどい」とナーシャが息を呑んだ。


「ええ」と私は言った。「でも——だからこそ、私たちが来たのです」


 私は袖をまくり上げた。


「始めましょう、ナーシャ。——一人でも多くの命を救うために」



 私たちは広場の片隅にござを敷き、急ごしらえの診療所を作った。


 最初は——人々は遠巻きに私たちを見ていた。


 立派な身なりの女が何をしに来たのか。そんな警戒の目だった。


 でも私は構わず、一番近くで倒れている老人に駆け寄った。



「大丈夫ですか」と私はその額に手を当てた。


 熱い。かなりの高熱だった。


 私は丁寧に症状を調べた。熱、喉の腫れ、発疹。——そして気づいた。


「ナーシャ」と私は言った。「この病、川の水が原因かもしれません。みんな同じ井戸の水を使っているはず」



「じゃあ……」とナーシャがはっとした。


「ええ」と私は言った。「水を煮沸させて飲ませること。それと、熱と炎症を抑える薬湯を。——急ぎましょう」


 私たちはすぐに薬を煎じ始めた。



 一人、また一人。


 倒れた人に薬湯を飲ませ、汗を拭い、水を煮沸するよう伝えて回る。


 ナーシャも必死だった。小さな手で薬を調合し、患者の口に運ぶ。その手つきは、もう立派な薬師のものだった。



 やがて——最初に薬を飲んだ老人の熱が、少し引いてきた。


「……楽になった」と老人がかすれた声で言った。「ありがとう……ありがとうございます……」


 その言葉が——遠巻きに見ていた人々の空気を変えた。



「本物の薬師様だ……!」


 誰かがそう叫んだ。


 とたんに人々が私たちのもとへ押し寄せてきた。「うちの子も!」「母さんを診てくれ!」——すがるような声、声、声。


「落ち着いて」と私は言った。「一人ずつ、必ず診ます。——誰も見捨てません」



 日が暮れるまで、私たちは休む間もなく働き続けた。


 何十人もの患者を診て、薬を配り、水の煮沸を教えて回った。


 夜になる頃には——私もナーシャも、くたくたになっていた。


 でも——救えた命が、確かにあった。それが何よりの力になった。



 こうして、私たちの長い戦いが始まった。


 貴族の評判も、立場も、今は関係なかった。


 ただ、目の前の苦しむ人を一人ずつ救っていく。


 それが——私にできる唯一のことだった。


 そして私は、まだ知らなかった。


 この下町での日々が——やがて王都じゅうに、ある噂を広げていくことを。「貴族にも見捨てられた民を救う薬師がいる」と。


 秋の冷たい風が、下町を吹き抜けていった。


(第134話へ続く)

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