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ただいま

 研究所に帰り着いたのは夕暮れ時だった。


 馬車を降りると、懐かしい薬草の香りが私を迎えた。


 ああ、帰ってきた。そう思った。


 たった数日なのに、何年も離れていたような気がした。



「先生——!」


 研究所の方からナーシャが駆けてきた。


「おかえりなさい! 先生、おかえりなさい!」


 ナーシャは私の胸に飛び込んできた。その温もりがたまらなく嬉しかった。



「ただいま、ナーシャ」と私はその頭を撫でた。


「無事で……無事でよかったです」とナーシャは半分泣きそうな声で言った。「私、ずっと心配で……」


「大丈夫でしたよ」と私は微笑んだ。「何も心配することはありませんでした」



 縁側を見ると、フェンがこちらを見ていた。


 いつもの定位置で、白い毛並みを夕日に輝かせて。


「フェン、ただいま」と私は声をかけた。


「……帰ったか」とフェンは静かに言った。「思ったより早かったな」



 私はフェンの傍に腰を下ろした。


「どうだった」とフェンは聞いた。


「……終わりました」と私は言った。「全部。——長い七年間に、けじめがつきました」


「そうか」とフェンはそれ以上何も聞かなかった。



 でも——その金色の目がわずかに和らいだのを、私は見逃さなかった。


「いい顔をしているな」とフェンはぽつりと言った。「行く前より、ずっと。——憑き物が落ちたような顔だ」


「ええ」と私は言った。「そんな気分です」



 私はふと、フェンの温かい毛並みに顔を寄せた。


 もふもふのぬくもり。懐かしい匂い。


 ——ああ、帰ってきたのだ。その実感がじわりと胸に広がった。


「……おい」とフェンが戸惑ったように言った。「どうした、急に」


「少しだけ」と私はその毛に顔を埋めたまま言った。「こうしていさせてください。——やっと帰ってこられたので」



 フェンはしばらく黙っていた。


 そして——振り払うことなく、ただじっと私を受け止めていてくれた。


 その温もりが、長い旅の疲れを優しく溶かしていった。


「……好きにしろ」と、フェンはぽつりと言った。


 その声は、いつもよりずっと柔らかかった。



「あ、そうだ」と私は思い出した。「フェン、お土産です」


 私は荷物の中から包みを取り出した。


「言われた通り、気の利いたものを選んできました」


「ほう」とフェンは少し興味深そうに鼻を動かした。



 包みを開くと、中から柔らかな毛布が出てきた。


 上等な、ふわふわの毛織りの毛布。


「……毛布?」とフェンが怪訝そうに言った。「俺には毛皮があるが」


「わかっています」と私は微笑んだ。「でも、もうすぐ秋が来ます。夜は冷えるでしょう。フェンの身体に障るといけないので」



 フェンはしばらく、その毛布を見つめていた。


「……俺を年寄り扱いするな」と、ぶっきらぼうに言った。


 でも——その鼻先はすんすんと毛布の匂いを嗅いでいた。


 そして、おもむろにその上に身体を丸めて横たわった。



「……悪くない」と、フェンは小さく言った。


「気に入りましたか」と私は聞いた。


「ふん」とフェンは顔を背けた。「お前がせっかく選んだものだ。——粗末にはできんだろう」


 その素直じゃない言い方に、私は思わず笑ってしまった。



「ナーシャには、これです」と私はもう一つの包みを渡した。


「わあ! 王都のお菓子!」とナーシャが目を輝かせた。「いいんですか!?」


「もちろん」と私は言った。「あなたにも、留守番のお礼です」


「ありがとうございます、先生!」



 その夜。


 みんなで夕食を囲んだ。


 ナーシャが留守の間の出来事を賑やかに話す。患者のおばあさんのこと。フェンが毛布を気に入ったこと。


 カイルも一緒だった。穏やかな笑い声が絶えなかった。



「そういえば」と私はふと言った。「近いうちに新しい人がここに来るかもしれません」


「新しい人?」とナーシャが首をかしげた。


「マーサさんという方です」と私は言った。「昔、私を支えてくれた優しい人。——今はまだ王都に用事がありますが、いつかここで一緒に働いてくれるかもしれません」



「わあ、楽しみです!」とナーシャが目を輝かせた。「どんな人ですか?」


「とても料理が上手で。——温かいスープを作るのが得意な人です」と私は懐かしく言った。


「スープ! 私、習いたいです!」とナーシャがはしゃいだ。


 その無邪気さに私はまた笑った。マーサさんが来たら、きっとこの子と気が合うだろう。



 窓の外には星が瞬いていた。


 毛布の上で、フェンがうとうととしていた。


 ナーシャはお菓子を頬張りながら幸せそうにしていた。


 その光景を見ながら——私はしみじみと思った。



 これが私の帰る場所。


 あの冷たい家で独りすり減っていた私が。


 今はこんなにも温かい人たちに囲まれている。


 失ったものの、その先で。私は本当の家族を手に入れたのだと思う。



「エリーゼ」とカイルがふと言った。「これで本当に過去とは決別できましたね」


「ええ」と私は言った。「あなたがいてくれたからです。——一人だったら、あんなに穏やかには向き合えなかった」



「これからは」とカイルは静かに言った。「過去ではなく。——未来の話をしましょう」


「未来?」


「ええ」とカイルは少し照れたように言った。「あなたと私の。——これからの話を」


 その言葉に、私の頬が温かくなった。


「近いうちに」とカイルは続けた。「兄上にも改めて挨拶をしましょう。——あなたを正式に迎えるための準備を、少しずつ」


「……はい」と私は頷いた。


 過去にけじめがついた今、私はようやく心から未来を見つめられる。その未来は温かい光に満ちていた。



 夜が更けていく。


 夏が終わり、秋が始まろうとしていた。


 長い過去にけじめをつけて、私は今、新しい季節の入り口に立っている。


 毛布の上で、フェンが静かに寝息を立てていた。


 ——おやすみなさい。いい夢を。


 私は心の中で、そっとつぶやいた。


(第132話へ続く)

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