ただいま
研究所に帰り着いたのは夕暮れ時だった。
馬車を降りると、懐かしい薬草の香りが私を迎えた。
ああ、帰ってきた。そう思った。
たった数日なのに、何年も離れていたような気がした。
◆
「先生——!」
研究所の方からナーシャが駆けてきた。
「おかえりなさい! 先生、おかえりなさい!」
ナーシャは私の胸に飛び込んできた。その温もりがたまらなく嬉しかった。
◆
「ただいま、ナーシャ」と私はその頭を撫でた。
「無事で……無事でよかったです」とナーシャは半分泣きそうな声で言った。「私、ずっと心配で……」
「大丈夫でしたよ」と私は微笑んだ。「何も心配することはありませんでした」
◆
縁側を見ると、フェンがこちらを見ていた。
いつもの定位置で、白い毛並みを夕日に輝かせて。
「フェン、ただいま」と私は声をかけた。
「……帰ったか」とフェンは静かに言った。「思ったより早かったな」
◆
私はフェンの傍に腰を下ろした。
「どうだった」とフェンは聞いた。
「……終わりました」と私は言った。「全部。——長い七年間に、けじめがつきました」
「そうか」とフェンはそれ以上何も聞かなかった。
◆
でも——その金色の目がわずかに和らいだのを、私は見逃さなかった。
「いい顔をしているな」とフェンはぽつりと言った。「行く前より、ずっと。——憑き物が落ちたような顔だ」
「ええ」と私は言った。「そんな気分です」
◆
私はふと、フェンの温かい毛並みに顔を寄せた。
もふもふのぬくもり。懐かしい匂い。
——ああ、帰ってきたのだ。その実感がじわりと胸に広がった。
「……おい」とフェンが戸惑ったように言った。「どうした、急に」
「少しだけ」と私はその毛に顔を埋めたまま言った。「こうしていさせてください。——やっと帰ってこられたので」
◆
フェンはしばらく黙っていた。
そして——振り払うことなく、ただじっと私を受け止めていてくれた。
その温もりが、長い旅の疲れを優しく溶かしていった。
「……好きにしろ」と、フェンはぽつりと言った。
その声は、いつもよりずっと柔らかかった。
◆
「あ、そうだ」と私は思い出した。「フェン、お土産です」
私は荷物の中から包みを取り出した。
「言われた通り、気の利いたものを選んできました」
「ほう」とフェンは少し興味深そうに鼻を動かした。
◆
包みを開くと、中から柔らかな毛布が出てきた。
上等な、ふわふわの毛織りの毛布。
「……毛布?」とフェンが怪訝そうに言った。「俺には毛皮があるが」
「わかっています」と私は微笑んだ。「でも、もうすぐ秋が来ます。夜は冷えるでしょう。フェンの身体に障るといけないので」
◆
フェンはしばらく、その毛布を見つめていた。
「……俺を年寄り扱いするな」と、ぶっきらぼうに言った。
でも——その鼻先はすんすんと毛布の匂いを嗅いでいた。
そして、おもむろにその上に身体を丸めて横たわった。
◆
「……悪くない」と、フェンは小さく言った。
「気に入りましたか」と私は聞いた。
「ふん」とフェンは顔を背けた。「お前がせっかく選んだものだ。——粗末にはできんだろう」
その素直じゃない言い方に、私は思わず笑ってしまった。
◆
「ナーシャには、これです」と私はもう一つの包みを渡した。
「わあ! 王都のお菓子!」とナーシャが目を輝かせた。「いいんですか!?」
「もちろん」と私は言った。「あなたにも、留守番のお礼です」
「ありがとうございます、先生!」
◆
その夜。
みんなで夕食を囲んだ。
ナーシャが留守の間の出来事を賑やかに話す。患者のおばあさんのこと。フェンが毛布を気に入ったこと。
カイルも一緒だった。穏やかな笑い声が絶えなかった。
◆
「そういえば」と私はふと言った。「近いうちに新しい人がここに来るかもしれません」
「新しい人?」とナーシャが首をかしげた。
「マーサさんという方です」と私は言った。「昔、私を支えてくれた優しい人。——今はまだ王都に用事がありますが、いつかここで一緒に働いてくれるかもしれません」
◆
「わあ、楽しみです!」とナーシャが目を輝かせた。「どんな人ですか?」
「とても料理が上手で。——温かいスープを作るのが得意な人です」と私は懐かしく言った。
「スープ! 私、習いたいです!」とナーシャがはしゃいだ。
その無邪気さに私はまた笑った。マーサさんが来たら、きっとこの子と気が合うだろう。
◆
窓の外には星が瞬いていた。
毛布の上で、フェンがうとうととしていた。
ナーシャはお菓子を頬張りながら幸せそうにしていた。
その光景を見ながら——私はしみじみと思った。
◆
これが私の帰る場所。
あの冷たい家で独りすり減っていた私が。
今はこんなにも温かい人たちに囲まれている。
失ったものの、その先で。私は本当の家族を手に入れたのだと思う。
◆
「エリーゼ」とカイルがふと言った。「これで本当に過去とは決別できましたね」
「ええ」と私は言った。「あなたがいてくれたからです。——一人だったら、あんなに穏やかには向き合えなかった」
◆
「これからは」とカイルは静かに言った。「過去ではなく。——未来の話をしましょう」
「未来?」
「ええ」とカイルは少し照れたように言った。「あなたと私の。——これからの話を」
その言葉に、私の頬が温かくなった。
「近いうちに」とカイルは続けた。「兄上にも改めて挨拶をしましょう。——あなたを正式に迎えるための準備を、少しずつ」
「……はい」と私は頷いた。
過去にけじめがついた今、私はようやく心から未来を見つめられる。その未来は温かい光に満ちていた。
◆
夜が更けていく。
夏が終わり、秋が始まろうとしていた。
長い過去にけじめをつけて、私は今、新しい季節の入り口に立っている。
毛布の上で、フェンが静かに寝息を立てていた。
——おやすみなさい。いい夢を。
私は心の中で、そっとつぶやいた。
(第132話へ続く)




