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過去からの手紙

 母子が去ってから数日が過ぎた。


 研究所には、また静かな日常が戻っていた。


 患者を診て、薬を作り、ナーシャを育てる。穏やかないつもの日々。


 ——そんなある日の午後。一通の手紙が届いた。



 手紙を運んできたのは、見慣れない使いの者だった。


「エリーゼ様にお渡しするように、と」と、その者は言った。


 私はその封筒を受け取った。


 そして——封蝋の紋章を見て、息を呑んだ。



 それは——忘れもしない紋章だった。


 七年間、私が仕えた、あの家。ウィレムの生家の紋章。


 懐かしさではなかった。ただ遠い昔の記憶が静かに蘇る。


 私はしばらく、その封筒を見つめていた。



「先生?」とナーシャが不思議そうに声をかけた。「どうかしましたか」


「……いえ」と私は言った。「昔の知り合いからです」


 私は静かに封を切った。


 中には——一枚の便箋が入っていた。



 差出人はウィレム本人ではなかった。


 あの家で私によくしてくれた、年配の侍女頭。マーサさんだった。


 その震えた筆跡を、私は目で追った。



 手紙には——こう書かれていた。


 あの家が傾いている、と。


 ウィレムが認めた愛人と、その子。その後ろ盾だった家が没落し、連座する形でウィレムの家もまた坂を転がり落ちている、と。



 借金。離散した使用人。冷え切った屋敷。


 マーサさんは書いていた。


 ——あなたを追い出したあの家が、今こんなことになるとは。あなたに合わせる顔はありません。けれど、どうしても一目あなたが息災か知りたくて、筆を執りました、と。



 私はその手紙を静かに読み終えた。


 胸の中に湧き上がるものは——意外なほど静かだった。


 ざまあみろ、とも。可哀想に、とも。どちらも強くは思わなかった。


 ただ——遠い昔の出来事が確かに終わったのだと、そう感じただけだった。



 代わりに思い出したのは——マーサさんのことだった。


 あの家で私がどれほど冷たく扱われても、マーサさんだけは違った。


 夜遅く疲れ果てた私に、こっそりと温かいスープを運んでくれた。


「お嬢様、無理をなさらず」と、皺だらけの手で私の背をさすってくれた、あの人。



 誰も味方のいなかった、あの家で。


 マーサさんのその小さな優しさだけが——私の心をかろうじてつなぎとめていた。


 もしあの人がいなかったら、私は七年もあの家で耐えられなかったかもしれない。


 その人が今、苦しんでいる。



「エリーゼ」


 いつのまにかフェンが私の傍に来ていた。


「悪い報せか」とフェンは静かに聞いた。


「いえ」と私は言った。「悪い報せではありません。——昔いた家が傾いている、という話です」



「お前を捨てた家だな」とフェンは言った。


「ええ」


「ふん」とフェンは鼻を鳴らした。「自業自得だ。——お前を手放した時点で、あの家は一番の宝を失った」


 その言葉に、私は小さく笑った。



「エリーゼ」とフェンがふと言った。「お前、どうするつもりだ」


「……まだ決めていません」と私は言った。


「行きたいなら行け」とフェンは言った。「——逃げる必要はない。今のお前は、もうあの頃のお前じゃない」


「フェン……」


「俺も一緒に行ってやりたいが」とフェンは少し悔しそうに言った。「この身体だ。——遠出は足手まといになる」



「いいえ」と私は言った。「フェンはここで待っていてください。——帰る場所があると思えるから、私はどこへでも行けるのです」


「……そうか」とフェンは静かに言った。「なら、土産でも買ってこい。気の利いたやつをな」


 その、ぶっきらぼうな優しさに、私はまた笑ってしまった。



 夕方、カイルが研究所に来た。


 私は手紙のことを彼に話した。隠す理由もなかった。


 カイルは黙って、それを聞いていた。


 そして——少し考えてから、口を開いた。



「あなたは」とカイルは言った。「どうしたいですか」


「……どうとは?」


「その侍女頭は」とカイルは言った。「あなたの身を案じて筆を執った。——あなたはその人に、何か返したいと思いますか」



 私はしばらく考えた。


 マーサさん。あの冷たい家で、唯一私に温かく接してくれた人。


 その人が今、傾いた家で苦労している。


「……一度」と私は言った。「会いに行こうと思います。マーサさんに」



「あの家に、ですか」とカイルがわずかに眉を寄せた。


「ええ」と私は言った。「でも——ウィレムに会うためではありません。マーサさんに会うためです」


「……」


「七年間、私を支えてくれたたった一人の人に。——せめて、お礼を言いたいのです」



 カイルはしばらく私を見ていた。


 そして——静かに頷いた。


「わかりました」とカイルは言った。「では、私もご一緒します」


「カイル……」


「あなた一人で行かせはしません」とカイルは言った。「——もう二度と、あなたをあの家で独りにはさせない」



 話を聞いていたナーシャが、不安そうに言った。


「先生……大丈夫ですか」と、ナーシャは言った。「先生をひどい目に遭わせた家、なんですよね。——行って、また傷つけられたりしませんか」


「大丈夫ですよ」と私はナーシャに微笑んだ。「行くのは過去に囚われるためではありません。——過去をちゃんと終わらせて、前に進むためです」



「それに」と私は言った。「カイルが一緒です。フェンもいてくれる。——今の私には、帰る場所も待っていてくれる人もたくさんあります。あの頃とは違うのです」


「……はい」とナーシャは少し安心したように頷いた。「気をつけて行ってきてください」


 その、いじらしさに私は胸が温かくなった。



 その言葉が温かかった。


 かつて私が独りで耐えた、あの家。


 今度は——隣にカイルがいてくれる。



 窓の外で、夏の終わりの風が吹いていた。


 過去が静かに私を呼んでいた。


 でも、もう恐れはなかった。


 私はもう、独りではないのだから。


 ——あの家へ行こう。すべてに、けじめをつけるために。


(第129話へ続く)

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