過去からの手紙
母子が去ってから数日が過ぎた。
研究所には、また静かな日常が戻っていた。
患者を診て、薬を作り、ナーシャを育てる。穏やかないつもの日々。
——そんなある日の午後。一通の手紙が届いた。
◆
手紙を運んできたのは、見慣れない使いの者だった。
「エリーゼ様にお渡しするように、と」と、その者は言った。
私はその封筒を受け取った。
そして——封蝋の紋章を見て、息を呑んだ。
◆
それは——忘れもしない紋章だった。
七年間、私が仕えた、あの家。ウィレムの生家の紋章。
懐かしさではなかった。ただ遠い昔の記憶が静かに蘇る。
私はしばらく、その封筒を見つめていた。
◆
「先生?」とナーシャが不思議そうに声をかけた。「どうかしましたか」
「……いえ」と私は言った。「昔の知り合いからです」
私は静かに封を切った。
中には——一枚の便箋が入っていた。
◆
差出人はウィレム本人ではなかった。
あの家で私によくしてくれた、年配の侍女頭。マーサさんだった。
その震えた筆跡を、私は目で追った。
◆
手紙には——こう書かれていた。
あの家が傾いている、と。
ウィレムが認めた愛人と、その子。その後ろ盾だった家が没落し、連座する形でウィレムの家もまた坂を転がり落ちている、と。
◆
借金。離散した使用人。冷え切った屋敷。
マーサさんは書いていた。
——あなたを追い出したあの家が、今こんなことになるとは。あなたに合わせる顔はありません。けれど、どうしても一目あなたが息災か知りたくて、筆を執りました、と。
◆
私はその手紙を静かに読み終えた。
胸の中に湧き上がるものは——意外なほど静かだった。
ざまあみろ、とも。可哀想に、とも。どちらも強くは思わなかった。
ただ——遠い昔の出来事が確かに終わったのだと、そう感じただけだった。
◆
代わりに思い出したのは——マーサさんのことだった。
あの家で私がどれほど冷たく扱われても、マーサさんだけは違った。
夜遅く疲れ果てた私に、こっそりと温かいスープを運んでくれた。
「お嬢様、無理をなさらず」と、皺だらけの手で私の背をさすってくれた、あの人。
◆
誰も味方のいなかった、あの家で。
マーサさんのその小さな優しさだけが——私の心をかろうじてつなぎとめていた。
もしあの人がいなかったら、私は七年もあの家で耐えられなかったかもしれない。
その人が今、苦しんでいる。
◆
「エリーゼ」
いつのまにかフェンが私の傍に来ていた。
「悪い報せか」とフェンは静かに聞いた。
「いえ」と私は言った。「悪い報せではありません。——昔いた家が傾いている、という話です」
◆
「お前を捨てた家だな」とフェンは言った。
「ええ」
「ふん」とフェンは鼻を鳴らした。「自業自得だ。——お前を手放した時点で、あの家は一番の宝を失った」
その言葉に、私は小さく笑った。
◆
「エリーゼ」とフェンがふと言った。「お前、どうするつもりだ」
「……まだ決めていません」と私は言った。
「行きたいなら行け」とフェンは言った。「——逃げる必要はない。今のお前は、もうあの頃のお前じゃない」
「フェン……」
「俺も一緒に行ってやりたいが」とフェンは少し悔しそうに言った。「この身体だ。——遠出は足手まといになる」
◆
「いいえ」と私は言った。「フェンはここで待っていてください。——帰る場所があると思えるから、私はどこへでも行けるのです」
「……そうか」とフェンは静かに言った。「なら、土産でも買ってこい。気の利いたやつをな」
その、ぶっきらぼうな優しさに、私はまた笑ってしまった。
◆
夕方、カイルが研究所に来た。
私は手紙のことを彼に話した。隠す理由もなかった。
カイルは黙って、それを聞いていた。
そして——少し考えてから、口を開いた。
◆
「あなたは」とカイルは言った。「どうしたいですか」
「……どうとは?」
「その侍女頭は」とカイルは言った。「あなたの身を案じて筆を執った。——あなたはその人に、何か返したいと思いますか」
◆
私はしばらく考えた。
マーサさん。あの冷たい家で、唯一私に温かく接してくれた人。
その人が今、傾いた家で苦労している。
「……一度」と私は言った。「会いに行こうと思います。マーサさんに」
◆
「あの家に、ですか」とカイルがわずかに眉を寄せた。
「ええ」と私は言った。「でも——ウィレムに会うためではありません。マーサさんに会うためです」
「……」
「七年間、私を支えてくれたたった一人の人に。——せめて、お礼を言いたいのです」
◆
カイルはしばらく私を見ていた。
そして——静かに頷いた。
「わかりました」とカイルは言った。「では、私もご一緒します」
「カイル……」
「あなた一人で行かせはしません」とカイルは言った。「——もう二度と、あなたをあの家で独りにはさせない」
◆
話を聞いていたナーシャが、不安そうに言った。
「先生……大丈夫ですか」と、ナーシャは言った。「先生をひどい目に遭わせた家、なんですよね。——行って、また傷つけられたりしませんか」
「大丈夫ですよ」と私はナーシャに微笑んだ。「行くのは過去に囚われるためではありません。——過去をちゃんと終わらせて、前に進むためです」
◆
「それに」と私は言った。「カイルが一緒です。フェンもいてくれる。——今の私には、帰る場所も待っていてくれる人もたくさんあります。あの頃とは違うのです」
「……はい」とナーシャは少し安心したように頷いた。「気をつけて行ってきてください」
その、いじらしさに私は胸が温かくなった。
◆
その言葉が温かかった。
かつて私が独りで耐えた、あの家。
今度は——隣にカイルがいてくれる。
◆
窓の外で、夏の終わりの風が吹いていた。
過去が静かに私を呼んでいた。
でも、もう恐れはなかった。
私はもう、独りではないのだから。
——あの家へ行こう。すべてに、けじめをつけるために。
(第129話へ続く)




