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峠を越えて

 夜は深くなっていった。


 そして——一番苦しい刻が来た。


 子供の熱が、ふいに跳ね上がったのだ。



 小さな身体が震え始めた。


 息が荒くなり、うわ言が増えていく。


「先生!」とナーシャが悲鳴のような声を上げた。「熱が、また上がって……!」


「落ち着いて」と私は言った。でも、自分の心臓も早鐘を打っていた。



 これは——山場だった。


 毒と薬が身体の中でせめぎ合っている。ここを越えられるかどうか。


 越えられれば熱は引く。越えられなければ——。


 私はその先を考えるのをやめた。



「ミラさん」と私は言った。「もう一度、薬湯を。ナーシャ、冷たい水を新しく」


「はい!」


 みんなが動いた。


 私は子供の小さな手を握った。熱い。燃えるように熱い。



「……負けないで」と私はその耳元でささやいた。「あなたには待っている人がいる。——お母さんが、ここにいる」


 子供のまぶたが、かすかに痙攣した。


 届いているのか。それとも——。



 縁側で、フェンが目を開けた。


「エリーゼ」とフェンは静かに言った。「案ずるな。——この熱は、毒が最後の抵抗をしているだけだ」


「最後の……?」


「ああ」とフェンは言った。「銀蘭が効いている証拠だ。——毒は追い詰められると暴れる。だが、それは終わりが近いということだ」



 その言葉に、私ははっとした。


 この熱は悪化ではない。——毒が追い詰められているのだ。


「もう少し」と私は自分に言い聞かせた。「もう少しで……」


 私は子供の額を冷やし続けた。何度も何度も。



 ミラは子供の手を握ったまま祈っていた。


「お願い……お願いします……」


 声は震えていた。でも、その手は決して離さなかった。


 私とナーシャとミラ。三人で、その小さな命を夜の中で守り続けた。



 どれほどの時間が過ぎただろう。


 窓の外が——わずかに白み始めた。


 夜明けが近づいていた。



 そして——その時だった。


 子供の身体から、ふっと力が抜けた。


 震えが止まった。荒かった息が——すうっと深く静かになった。


 額に玉のような汗が噴き出してきた。



「……熱が」と私はその額に触れて言った。「熱が下がってきている……!」


「本当ですか!?」とナーシャが身を乗り出した。


「ええ」と私は言った。「汗をかいた。——峠を越えました」



 ミラの目から涙があふれた。


「……ああ……ああ……!」


 声にならない声で、ミラは泣いた。子供の手を額に押し当てて。


 その姿に、私もナーシャも目頭が熱くなった。



 朝日が窓から差し込んできた。


 その光の中で——子供のまぶたが、ゆっくりと開いた。


「……母、ちゃん?」と、かすれた小さな声が言った。


「ここにいるよ!」とミラが叫んだ。「母ちゃんはここにいる! よく頑張ったね……!」



 子供は、まだぼんやりとしていた。


 でも、その目は確かに母を見ていた。生きて目を覚ましたのだ。


「お腹……すいた」と子供がつぶやいた。


 その言葉に——部屋中が笑いと涙に包まれた。



「お腹がすいた、ですって」とナーシャが泣き笑いで言った。「もう大丈夫ですね、先生!」


「ええ」と私は言った。「もう大丈夫です」


 お腹がすいた。——それは命が戻ってきた、何よりの証だった。



 ミラが私の手を握った。


「ありがとうございます」とミラは言った。「あなたがいなかったら……この子は……」


「私一人の力ではありません」と私は言った。「ナーシャもフェンも。——みんなで助けたんです」



 縁側のフェンが、ふんと鼻を鳴らした。


「俺は、ただ薬の名を言っただけだ」とフェンは言った。「助けたのは——お前たちの手だ」


 でも、その声はどこか満足そうだった。



「先生、私、お粥を作ってきます!」とナーシャがはりきって言った。「お腹すいてるって!」


「お願いします」と私は言った。「消化のいいものを少しずつ」


 ナーシャが台所へ駆けていった。


 その足取りは軽かった。一晩中看病して、疲れているはずなのに。



 しばらくして、ナーシャが温かいお粥を運んできた。


 ミラがそれを匙で少しずつ子供に食べさせた。


 子供はゆっくりとそれを口に運び——こくりと飲み込んだ。


「……おいしい」と子供が小さく言った。



 その一言に、ミラがまた涙ぐんだ。


 昨日まで死の淵にいた子が。今、こうしてお粥をおいしいと言っている。


 当たり前の、その光景が——どれほど尊いものか。


 私は改めて思い知った。



 朝の遅い頃。


 カイルが研究所にやってきた。


 昨夜の騒ぎを聞きつけたのか、少し急いだ様子だった。


「エリーゼ、無事ですか」とカイルは言った。「重い患者が来たと——」



「ええ」と私は言った。「峠は越えました。——もう大丈夫です」


 カイルが寝台の母子を見た。そして、安堵したように息をついた。


「……よかった」とカイルは静かに言った。「あなたが無理をしていないか心配でした」


 その言葉に、私は胸が温かくなった。



「ミラさん」と私は母親に言った。「子供さんが回復するまで、ここで休んでいってください。長旅の疲れもあるでしょう」


「でも……ご迷惑では」とミラがためらった。


「迷惑ではありません」と私は言った。「ここは、そのための場所です」



「……何もお返しができません」とミラはうつむいた。「お金も、ろくになくて」


「お返しなどいりません」と私は言った。「あなたがこの子と笑って村に帰れること。——それが何よりのお返しです」


 ミラが深く深く頭を下げた。



 その日から、母子は研究所で過ごすことになった。


 患者のおばあさんたちが何かと世話を焼いてくれた。子供に果物を剥いてやり、ミラに温かい汁物を運んでやる。


 研究所は——いつも、こうして誰かが誰かを支えていた。



 私は窓の外の朝日を見た。


 長い夜が明けた。


 一つの命が夜を越えて朝を迎えた。


 ——昔、誰にも救われなかった私が。今、こうして誰かを救えている。



 フェンが、いつか言ってくれた言葉を思い出す。


 「お前に、手を伸ばす人になってほしかった」と。


 私はなれただろうか。


 朝日の中で寄り添う母子を見ながら——私は静かにそう思った。


 長い夜のその先に。温かい朝が来ていた。


(第126話へ続く)

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