峠を越えて
夜は深くなっていった。
そして——一番苦しい刻が来た。
子供の熱が、ふいに跳ね上がったのだ。
◆
小さな身体が震え始めた。
息が荒くなり、うわ言が増えていく。
「先生!」とナーシャが悲鳴のような声を上げた。「熱が、また上がって……!」
「落ち着いて」と私は言った。でも、自分の心臓も早鐘を打っていた。
◆
これは——山場だった。
毒と薬が身体の中でせめぎ合っている。ここを越えられるかどうか。
越えられれば熱は引く。越えられなければ——。
私はその先を考えるのをやめた。
◆
「ミラさん」と私は言った。「もう一度、薬湯を。ナーシャ、冷たい水を新しく」
「はい!」
みんなが動いた。
私は子供の小さな手を握った。熱い。燃えるように熱い。
◆
「……負けないで」と私はその耳元でささやいた。「あなたには待っている人がいる。——お母さんが、ここにいる」
子供のまぶたが、かすかに痙攣した。
届いているのか。それとも——。
◆
縁側で、フェンが目を開けた。
「エリーゼ」とフェンは静かに言った。「案ずるな。——この熱は、毒が最後の抵抗をしているだけだ」
「最後の……?」
「ああ」とフェンは言った。「銀蘭が効いている証拠だ。——毒は追い詰められると暴れる。だが、それは終わりが近いということだ」
◆
その言葉に、私ははっとした。
この熱は悪化ではない。——毒が追い詰められているのだ。
「もう少し」と私は自分に言い聞かせた。「もう少しで……」
私は子供の額を冷やし続けた。何度も何度も。
◆
ミラは子供の手を握ったまま祈っていた。
「お願い……お願いします……」
声は震えていた。でも、その手は決して離さなかった。
私とナーシャとミラ。三人で、その小さな命を夜の中で守り続けた。
◆
どれほどの時間が過ぎただろう。
窓の外が——わずかに白み始めた。
夜明けが近づいていた。
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そして——その時だった。
子供の身体から、ふっと力が抜けた。
震えが止まった。荒かった息が——すうっと深く静かになった。
額に玉のような汗が噴き出してきた。
◆
「……熱が」と私はその額に触れて言った。「熱が下がってきている……!」
「本当ですか!?」とナーシャが身を乗り出した。
「ええ」と私は言った。「汗をかいた。——峠を越えました」
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ミラの目から涙があふれた。
「……ああ……ああ……!」
声にならない声で、ミラは泣いた。子供の手を額に押し当てて。
その姿に、私もナーシャも目頭が熱くなった。
◆
朝日が窓から差し込んできた。
その光の中で——子供のまぶたが、ゆっくりと開いた。
「……母、ちゃん?」と、かすれた小さな声が言った。
「ここにいるよ!」とミラが叫んだ。「母ちゃんはここにいる! よく頑張ったね……!」
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子供は、まだぼんやりとしていた。
でも、その目は確かに母を見ていた。生きて目を覚ましたのだ。
「お腹……すいた」と子供がつぶやいた。
その言葉に——部屋中が笑いと涙に包まれた。
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「お腹がすいた、ですって」とナーシャが泣き笑いで言った。「もう大丈夫ですね、先生!」
「ええ」と私は言った。「もう大丈夫です」
お腹がすいた。——それは命が戻ってきた、何よりの証だった。
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ミラが私の手を握った。
「ありがとうございます」とミラは言った。「あなたがいなかったら……この子は……」
「私一人の力ではありません」と私は言った。「ナーシャもフェンも。——みんなで助けたんです」
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縁側のフェンが、ふんと鼻を鳴らした。
「俺は、ただ薬の名を言っただけだ」とフェンは言った。「助けたのは——お前たちの手だ」
でも、その声はどこか満足そうだった。
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「先生、私、お粥を作ってきます!」とナーシャがはりきって言った。「お腹すいてるって!」
「お願いします」と私は言った。「消化のいいものを少しずつ」
ナーシャが台所へ駆けていった。
その足取りは軽かった。一晩中看病して、疲れているはずなのに。
◆
しばらくして、ナーシャが温かいお粥を運んできた。
ミラがそれを匙で少しずつ子供に食べさせた。
子供はゆっくりとそれを口に運び——こくりと飲み込んだ。
「……おいしい」と子供が小さく言った。
◆
その一言に、ミラがまた涙ぐんだ。
昨日まで死の淵にいた子が。今、こうしてお粥をおいしいと言っている。
当たり前の、その光景が——どれほど尊いものか。
私は改めて思い知った。
◆
朝の遅い頃。
カイルが研究所にやってきた。
昨夜の騒ぎを聞きつけたのか、少し急いだ様子だった。
「エリーゼ、無事ですか」とカイルは言った。「重い患者が来たと——」
◆
「ええ」と私は言った。「峠は越えました。——もう大丈夫です」
カイルが寝台の母子を見た。そして、安堵したように息をついた。
「……よかった」とカイルは静かに言った。「あなたが無理をしていないか心配でした」
その言葉に、私は胸が温かくなった。
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「ミラさん」と私は母親に言った。「子供さんが回復するまで、ここで休んでいってください。長旅の疲れもあるでしょう」
「でも……ご迷惑では」とミラがためらった。
「迷惑ではありません」と私は言った。「ここは、そのための場所です」
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「……何もお返しができません」とミラはうつむいた。「お金も、ろくになくて」
「お返しなどいりません」と私は言った。「あなたがこの子と笑って村に帰れること。——それが何よりのお返しです」
ミラが深く深く頭を下げた。
◆
その日から、母子は研究所で過ごすことになった。
患者のおばあさんたちが何かと世話を焼いてくれた。子供に果物を剥いてやり、ミラに温かい汁物を運んでやる。
研究所は——いつも、こうして誰かが誰かを支えていた。
◆
私は窓の外の朝日を見た。
長い夜が明けた。
一つの命が夜を越えて朝を迎えた。
——昔、誰にも救われなかった私が。今、こうして誰かを救えている。
◆
フェンが、いつか言ってくれた言葉を思い出す。
「お前に、手を伸ばす人になってほしかった」と。
私はなれただろうか。
朝日の中で寄り添う母子を見ながら——私は静かにそう思った。
長い夜のその先に。温かい朝が来ていた。
(第126話へ続く)




