表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
123/182

帰り道

 海の朝は波の音から始まった。


 目を覚ますと、宿の窓の外が白み始めていた。


 私はそっと起き出した。隣ではナーシャがまだ眠っていた。


 昨夜は結局、近くの宿に泊まったのだった。



 階下に降りると、フェンがもう起きていた。


 縁台に伏せて、夜明けの海を見ていた。


「フェン、早いですね」と私は言った。


「年寄りは朝が早い」とフェンは言った。「——それに、海を見逃すのが惜しくてな」



 私はフェンの隣に腰を下ろした。


 水平線がゆっくりと明るくなっていく。


 昨日の夕日とは違う。今度は海の向こうから光が昇ってくる。


 朝日が波の上に一本の金色の道を作った。



「……きれいです」と私は言った。


「ああ」とフェンは言った。「沈むのも昇るのも。——海はどちらも見せてくれる」


 しばらく二人で黙って朝日を見ていた。


 波の音だけが繰り返し聞こえていた。



「エリーゼ」とフェンがふと言った。


「はい」


「お前は変わったな」とフェンは言った。「初めて会った頃。——あの頃のお前は、こんなに穏やかな顔はしていなかった」



 私は少し考えた。


「……そうかもしれません」と私は言った。「あの頃の私は、ただ生きるだけで精一杯でした」


「今は?」


「今は」と私は言った。「——生きていてよかったと思えます。毎朝、目を覚ますのが楽しみで」



「それでいい」とフェンは言った。「俺がお前を拾ったのは。——お前に、そう思ってほしかったからだ」


「フェンが私を変えてくれました」


「俺じゃない」とフェンは言った。「お前が変わったんだ。——俺はただ隣にいただけだ」



 やがてナーシャとカイルも起きてきた。


 みんなで宿の朝食を食べた。


 焼きたてのパンと海の幸。素朴だが温かい食事だった。


 ナーシャはまだ眠そうに目をこすっていた。



「ナーシャ、よく眠れましたか」と私は聞いた。


「はい! ……あ、でも」とナーシャがはっとした。「私、昨日途中で寝ちゃって……海、もっと見たかったのに……」


「また来ればいい」とフェンが言った。「——次の夏も。その次の夏も」


 ナーシャの顔がぱっと輝いた。



 朝食の後、私たちは最後にもう一度浜辺に出た。


 ナーシャが砂浜で何かを拾っていた。


「先生! 見てください! きれいな貝殻!」


 小さな手の中に、桜色の貝殻がいくつかあった。



「お土産にするんです」とナーシャが言った。「研究所のみんなに。患者のおばあさんたちにも」


「喜びますよ」と私は言った。


「フェンにも!」とナーシャが、一番きれいな貝殻をフェンに差し出した。「これ、あげます」



 フェンがその貝殻をじっと見た。


「……俺に?」


「はい! 海の思い出です」とナーシャが言った。「フェンが、ずっと持っていられるように」


 フェンはしばらく黙っていた。


 そして——ぽつりと言った。「……大事にする」



 帰りの馬車に乗り込んだ。


 窓の外で海が少しずつ遠ざかっていく。


 ナーシャが名残惜しそうに海を見ていた。やがて揺れに誘われて、また眠ってしまった。


 フェンもその隣で目を閉じていた。疲れたのだろう。



 私とカイルは静かに二人を見ていた。


「……いい旅でした」と私は小声で言った。


「ええ」とカイルは言った。「フェンリルが、あんなに穏やかな顔をするとは」


「貝殻、大事にすると言っていました」


「ああ」とカイルは微笑んだ。



 馬車が揺れる。


 ふとカイルが言った。


「……フェンリルの言葉ですが」と、彼は少し言いにくそうに言った。「昨日の。——その、子供の話」


 私の頬がまた熱くなった。



「気が早いと言いましたが」とカイルは言った。「——本当は嬉しかった。あいつがそう言ってくれたことが」


「カイル……」


「俺は」とカイルは、海の方を見ながら言った。「あなたと家族になりたい。——子供のことも、いつか。あなたが望むなら」



 私はしばらく何も言えなかった。


 失った七年。あの頃、私は家族のために尽くして、すり減っていった。


 でも——今、目の前にいる人は違った。


 私をすり減らすのではなく。私と一緒に、何かを築こうとしている。



「……私も」と私はようやく言った。「カイルと家族になりたいです」


 カイルが私を見た。


 その目に優しい光があった。


 彼の手がそっと私の手を握った。馬車の揺れの中で。



 眠るナーシャ。寄り添うフェン。隣にいるカイル。


 窓の外を夏の景色が流れていく。


 私は思った。


 ——これが私の新しい家族なのだ、と。



 海はもう見えなくなっていた。


 でも潮の匂いは、まだ馬車の中に残っていた。


 その匂いは、きっとしばらく消えないだろう。


 この夏の思い出と一緒に。



 日が暮れる頃、馬車が研究所に着いた。


 門の前に——患者のおばあさんたちが待っていた。


「お帰りなさい!」と一人が言った。「留守の間、畑の水やりはしておきましたよ」


「ありがとうございます」と私は頭を下げた。



 ナーシャが馬車から飛び降りた。


「おばあちゃんたち! お土産です!」


 桜色の貝殻を一つずつ、おばあさんたちの手に乗せていった。


「まあ、きれいな」と、おばあさんたちが目を細めた。「海の貝殻かい。——ありがとうね」



 ささやかな貝殻。


 でも、その小さな手のひらの上で、貝殻は宝物のように輝いて見えた。


 ナーシャは得意げに海の話を語って聞かせていた。フェンが波に足を濡らしたこと。みんなで夕日を見たこと。


 おばあさんたちが笑いながら、それを聞いていた。



 その夜。


 フェンは、もらった貝殻を縁側の窓辺にそっと置いた。


 月の光が貝殻を淡く照らしていた。


「フェン、気に入りましたか」と私は聞いた。


「ああ」とフェンは静かに言った。「——ここから海が見える気がする」



 窓辺の小さな貝殻。


 その向こうに、フェンはきっと、あの青い海を見ているのだろう。


 夏の旅は終わった。


 でも、その思い出は——これから先も、ずっと私たちの胸の中に残り続ける。


 いい夏だった。本当にいい夏だった。


(第124話へ続く)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ