海へ
夏が本格的に訪れた。
海へ行く日が、ついに決まった。
研究所は朝から賑やかだった。
ナーシャは昨夜から眠れなかったらしく、目をこすりながらも、満面の笑みで荷物を詰めていた。
◆
「先生! これも持っていきますか?」とナーシャが薬箱を抱えて聞いた。
「念のため、持っていきましょう」と私は言った。「旅先で何があるか、わかりませんから」
「はい!」
ナーシャは何でも嬉しそうだった。タオルも、着替えも、フェンのための毛布も。一つ一つ丁寧に詰めていった。
◆
カイルが馬車を手配してくれた。
王城の立派な馬車ではなく、ごく普通の旅の馬車だった。
「目立たない方がいいでしょう」とカイルは言った。「——気楽に行きたいので」
その心遣いが嬉しかった。王子としてではなく、ただのカイルとして行きたいのだ。
◆
フェンは縁側で出発を待っていた。
白い毛並みが夏の朝日に輝いていた。
「フェン、準備できましたか」と私は聞いた。
「ああ」とフェンは言った。「——海か。長く生きたが、見たことがない」
「気に入るといいですね」
「どうだか」とフェンは言った。「ただの水たまりかもしれん」
◆
馬車に乗り込んだ。
フェンは少し身体が辛そうだったが、ナーシャが毛布を敷いて支えた。
「フェン、ここに寄りかかって」とナーシャが言った。
「子供扱いするな」とフェンは言いつつ、素直に寄りかかった。
温かい毛並みが、ナーシャの肩に預けられた。その姿に、私は小さく笑った。
◆
馬車が走り出した。
窓の外を夏の景色が流れていった。
青い空。白い雲。緑の麦畑。
ナーシャは窓に張り付いて、はしゃいでいた。フェンはその隣で、目を細めていた。
◆
「フェン、外は見えますか」とナーシャが聞いた。
「見えている」とフェンは言った。「——お前、落ちるなよ」
「落ちません!」
カイルは私の隣で、静かにその光景を見ていた。
その横顔は穏やかだった。言葉はなくても——幸せそうだった。
◆
半日ほど馬車に揺られた。
昼を過ぎた頃。
ふと空気が変わった。
風に——潮の匂いが混じり始めた。
◆
「……この匂いは」とフェンが鼻を動かした。
「海です」とカイルが言った。「もうすぐ見えます」
フェンが身体を起こした。
ナーシャが窓の外を必死に見つめた。
「まだ見えない……まだ……」
◆
馬車が丘を登りきった。
その瞬間だった。
視界が、ぱっと開けた。
——海が、そこにあった。
◆
どこまでも続く、青。
夏の日差しを受けて、無数の光が水面に躍っていた。
白い波が寄せては返し、潮騒が遠く聞こえた。
そのあまりに大きな景色に——馬車の中の全員が言葉を失った。
◆
「……すごい」とナーシャがつぶやいた。「海って、こんなに……大きいんだ……」
フェンは何も言わなかった。
ただ、じっと海を見つめていた。
その金色の目に——青い海が映り込んでいた。
◆
馬車が海辺に着いた。
私たちは降りた。
足元の砂が柔らかかった。風が強く、髪をなびかせた。
フェンがゆっくりと、砂浜に足を踏み出した。
◆
「フェン……?」とナーシャが心配そうに声をかけた。
フェンは答えなかった。
一歩、また一歩。波打ち際まで歩いていった。
そして——寄せてきた波が、その白い足を濡らした。
◆
「……冷たい」とフェンがぽつりと言った。
「フェン!」
「……生きていて、よかった」とフェンは静かに言った。「こんなものが、この世にあったとは。——知らずに死ぬところだった」
◆
その言葉に、ナーシャの目から涙がこぼれた。
「フェン……」
「泣くな」とフェンは言った。「せっかくの海が滲む」
「だって……」
ナーシャがフェンの首に抱きついた。温かい毛に顔を埋めた。フェンはもう、振り払わなかった。
◆
やがて、ナーシャが波打ち際を駆け出した。
「先生! 海、冷たくて気持ちいいです!」
裾をまくり上げ、足を水に浸して、はしゃいでいた。
寄せる波に、きゃあと声を上げて逃げ、また追いかける。
その姿は——年相応の子供のようだった。
◆
「あの子も」とフェンはそれを見て言った。「——苦労ばかりの子だった。ああして笑えるようになったか」
「フェンのおかげです」と私は言った。
「俺じゃない」とフェンは言った。「お前たちがいたからだ。——居場所を作ってやれたのは」
◆
日が傾き始めた。
私たちは砂浜に腰を下ろし、持ってきた食事を広げた。
ナーシャが握ってくれた握り飯。研究所の畑の野菜。患者のおばあさんが持たせてくれた漬物。
潮風の中で食べる、それは——いつもの食事が何倍も美味しく感じられた。
◆
「フェン、食べられますか」とナーシャが聞いた。
「少しなら」とフェンは言った。
ナーシャが小さく千切って、フェンの口元に運んだ。
フェンはそれを、ゆっくりと食べた。海を見ながら。みんなと一緒に。
◆
やがて、空が茜色に染まり始めた。
夕日が海の向こうに、ゆっくりと沈んでいく。
水面が金色に燃え、世界中がその色に包まれた。
誰も何も言わなかった。ただ、その光景を見ていた。
◆
「……きれいだな」とフェンがぽつりと言った。
「ええ」と私は答えた。
「俺はな」とフェンは夕日を見ながら言った。「もう長くない。それは、わかっている。——だが、今日ここに来て思った」
「……」
「悪くなかった、と」とフェンは言った。「この命。——お前たちに出会えた、この命は」
◆
私は何も言えなかった。
ただ、フェンの隣に座り、その温かい毛並みに、そっと手を置いた。
フェンが私の手に、頭を押し当ててきた。
いつものように。甘えるように。
◆
「フェン」と私は言った。「まだ行かないでくださいね」
「ああ」とフェンは言った。「まだ行かん。——海も見た。だが、まだ見たいものがある」
「なんですか」
「お前たちの、これからだ」とフェンは言った。「ナーシャが一人前になる、その先。——お前とカイルの子の顔も」
◆
その言葉に、私の頬が熱くなった。
カイルが隣で、小さく咳払いをした。
「気が早いです」とカイルが言った。
「早くはない」とフェンは言った。「俺には時間がないのでな。——急いでもらわんと困る」
みんなが笑った。海を染める夕日の中で。
◆
夕日が沈みきった。
空に一番星が瞬いた。
潮騒だけが静かに聞こえていた。
ナーシャは、いつのまにかフェンの毛にもたれて眠っていた。一日、はしゃぎ疲れたのだろう。
◆
カイルが、その小さな身体に毛布をかけた。
フェンはナーシャを起こさないように、じっとしていた。
私とカイルは並んで、夜の海を見ていた。
カイルの手が、そっと私の手を握った。潮風が私たちの間を吹き抜けていった。
◆
「……来てよかった」とカイルがぽつりと言った。
「ええ」と私は言った。「本当に」
遠い波の音。眠る弟子。寄り添う聖獣。隣にいる人。
失ったと思った七年の、その先に——私は、こんなにも温かい夜を手に入れていた。
夏の海は、どこまでも青く、そして——優しかった。
(第123話へ続く)




