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海へ

 夏が本格的に訪れた。


 海へ行く日が、ついに決まった。


 研究所は朝から賑やかだった。


 ナーシャは昨夜から眠れなかったらしく、目をこすりながらも、満面の笑みで荷物を詰めていた。



「先生! これも持っていきますか?」とナーシャが薬箱を抱えて聞いた。


「念のため、持っていきましょう」と私は言った。「旅先で何があるか、わかりませんから」


「はい!」


 ナーシャは何でも嬉しそうだった。タオルも、着替えも、フェンのための毛布も。一つ一つ丁寧に詰めていった。



 カイルが馬車を手配してくれた。


 王城の立派な馬車ではなく、ごく普通の旅の馬車だった。


「目立たない方がいいでしょう」とカイルは言った。「——気楽に行きたいので」


 その心遣いが嬉しかった。王子としてではなく、ただのカイルとして行きたいのだ。



 フェンは縁側で出発を待っていた。


 白い毛並みが夏の朝日に輝いていた。


「フェン、準備できましたか」と私は聞いた。


「ああ」とフェンは言った。「——海か。長く生きたが、見たことがない」


「気に入るといいですね」


「どうだか」とフェンは言った。「ただの水たまりかもしれん」



 馬車に乗り込んだ。


 フェンは少し身体が辛そうだったが、ナーシャが毛布を敷いて支えた。


「フェン、ここに寄りかかって」とナーシャが言った。


「子供扱いするな」とフェンは言いつつ、素直に寄りかかった。


 温かい毛並みが、ナーシャの肩に預けられた。その姿に、私は小さく笑った。



 馬車が走り出した。


 窓の外を夏の景色が流れていった。


 青い空。白い雲。緑の麦畑。


 ナーシャは窓に張り付いて、はしゃいでいた。フェンはその隣で、目を細めていた。



「フェン、外は見えますか」とナーシャが聞いた。


「見えている」とフェンは言った。「——お前、落ちるなよ」


「落ちません!」


 カイルは私の隣で、静かにその光景を見ていた。


 その横顔は穏やかだった。言葉はなくても——幸せそうだった。



 半日ほど馬車に揺られた。


 昼を過ぎた頃。


 ふと空気が変わった。


 風に——潮の匂いが混じり始めた。



「……この匂いは」とフェンが鼻を動かした。


「海です」とカイルが言った。「もうすぐ見えます」


 フェンが身体を起こした。


 ナーシャが窓の外を必死に見つめた。


「まだ見えない……まだ……」



 馬車が丘を登りきった。


 その瞬間だった。


 視界が、ぱっと開けた。


 ——海が、そこにあった。



 どこまでも続く、青。


 夏の日差しを受けて、無数の光が水面に躍っていた。


 白い波が寄せては返し、潮騒が遠く聞こえた。


 そのあまりに大きな景色に——馬車の中の全員が言葉を失った。



「……すごい」とナーシャがつぶやいた。「海って、こんなに……大きいんだ……」


 フェンは何も言わなかった。


 ただ、じっと海を見つめていた。


 その金色の目に——青い海が映り込んでいた。



 馬車が海辺に着いた。


 私たちは降りた。


 足元の砂が柔らかかった。風が強く、髪をなびかせた。


 フェンがゆっくりと、砂浜に足を踏み出した。



「フェン……?」とナーシャが心配そうに声をかけた。


 フェンは答えなかった。


 一歩、また一歩。波打ち際まで歩いていった。


 そして——寄せてきた波が、その白い足を濡らした。



「……冷たい」とフェンがぽつりと言った。


「フェン!」


「……生きていて、よかった」とフェンは静かに言った。「こんなものが、この世にあったとは。——知らずに死ぬところだった」



 その言葉に、ナーシャの目から涙がこぼれた。


「フェン……」


「泣くな」とフェンは言った。「せっかくの海が滲む」


「だって……」


 ナーシャがフェンの首に抱きついた。温かい毛に顔を埋めた。フェンはもう、振り払わなかった。



 やがて、ナーシャが波打ち際を駆け出した。


「先生! 海、冷たくて気持ちいいです!」


 裾をまくり上げ、足を水に浸して、はしゃいでいた。


 寄せる波に、きゃあと声を上げて逃げ、また追いかける。


 その姿は——年相応の子供のようだった。



「あの子も」とフェンはそれを見て言った。「——苦労ばかりの子だった。ああして笑えるようになったか」


「フェンのおかげです」と私は言った。


「俺じゃない」とフェンは言った。「お前たちがいたからだ。——居場所を作ってやれたのは」



 日が傾き始めた。


 私たちは砂浜に腰を下ろし、持ってきた食事を広げた。


 ナーシャが握ってくれた握り飯。研究所の畑の野菜。患者のおばあさんが持たせてくれた漬物。


 潮風の中で食べる、それは——いつもの食事が何倍も美味しく感じられた。



「フェン、食べられますか」とナーシャが聞いた。


「少しなら」とフェンは言った。


 ナーシャが小さく千切って、フェンの口元に運んだ。


 フェンはそれを、ゆっくりと食べた。海を見ながら。みんなと一緒に。



 やがて、空が茜色に染まり始めた。


 夕日が海の向こうに、ゆっくりと沈んでいく。


 水面が金色に燃え、世界中がその色に包まれた。


 誰も何も言わなかった。ただ、その光景を見ていた。



「……きれいだな」とフェンがぽつりと言った。


「ええ」と私は答えた。


「俺はな」とフェンは夕日を見ながら言った。「もう長くない。それは、わかっている。——だが、今日ここに来て思った」


「……」


「悪くなかった、と」とフェンは言った。「この命。——お前たちに出会えた、この命は」



 私は何も言えなかった。


 ただ、フェンの隣に座り、その温かい毛並みに、そっと手を置いた。


 フェンが私の手に、頭を押し当ててきた。


 いつものように。甘えるように。



「フェン」と私は言った。「まだ行かないでくださいね」


「ああ」とフェンは言った。「まだ行かん。——海も見た。だが、まだ見たいものがある」


「なんですか」


「お前たちの、これからだ」とフェンは言った。「ナーシャが一人前になる、その先。——お前とカイルの子の顔も」



 その言葉に、私の頬が熱くなった。


 カイルが隣で、小さく咳払いをした。


「気が早いです」とカイルが言った。


「早くはない」とフェンは言った。「俺には時間がないのでな。——急いでもらわんと困る」


 みんなが笑った。海を染める夕日の中で。



 夕日が沈みきった。


 空に一番星が瞬いた。


 潮騒だけが静かに聞こえていた。


 ナーシャは、いつのまにかフェンの毛にもたれて眠っていた。一日、はしゃぎ疲れたのだろう。



 カイルが、その小さな身体に毛布をかけた。


 フェンはナーシャを起こさないように、じっとしていた。


 私とカイルは並んで、夜の海を見ていた。


 カイルの手が、そっと私の手を握った。潮風が私たちの間を吹き抜けていった。



「……来てよかった」とカイルがぽつりと言った。


「ええ」と私は言った。「本当に」


 遠い波の音。眠る弟子。寄り添う聖獣。隣にいる人。


 失ったと思った七年の、その先に——私は、こんなにも温かい夜を手に入れていた。


 夏の海は、どこまでも青く、そして——優しかった。


(第123話へ続く)

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