夏の気配
春が過ぎていった。
ラベンダーの花が盛りを終え、薬草園には夏の気配が漂い始めた。
日差しが強くなり、蝉の声が遠くで聞こえるようになった。
研究所の暮らしは相変わらず穏やかだった。患者を診て、薬を作り、ナーシャを育てる。週に三日、王城から通う日々。
そして——フェンは、まだここにいた。
◆
夏が近づくと、フェンの食欲が少し戻った。
暑さに強い質なのかもしれなかった。
ナーシャが毎日、フェンに好物を運んだ。患者のおばあさんたちも、滋養のいいものを持ってきてくれた。
みんなの思いが——フェンを支えていた。
◆
ある朝、フェンが庭でゆっくりと歩いていた。
以前より足取りはしっかりしていた。
「フェン、調子がいいですね」と私は言った。
「ああ」とフェンは言った。「夏は悪くない。——暑いのは嫌いだが、身体は軽くなる」
◆
「このまま夏を越えられたら」と私は言った。
「越えるさ」とフェンは言った。「ナーシャと約束したからな。——あいつが一人前になるまでは死なん」
「ナーシャ、喜びます」
「あいつはすぐ泣くからな」とフェンは言った。「泣かれると調子が狂う」
◆
その日、ナーシャが新しい調合に挑戦していた。
熱冷ましの薬だった。夏になると需要が増える。
ナーシャは真剣な顔で、薬草を量り、混ぜていた。
私は口を出さずに見守っていた。
◆
しばらくして、ナーシャができた薬を持ってきた。
「先生! できました! 見てください!」
私はそれを確かめた。
配合。色。香り。——どれも申し分なかった。
「……上手にできましたね」と私は言った。
◆
「本当ですか!?」
「ええ。これなら患者さんに出せます」と私は言った。「あなた一人で、ここまでできるようになったのですね」
ナーシャの顔が、ぱっと輝いた。
「やった……! 先生に認めてもらえた!」
◆
フェンが縁側から声をかけた。
「……一人前に近づいたな、弟子」
「フェン!」とナーシャが駆け寄った。「見ててくれましたか!」
「見ていた」とフェンは言った。「お前は伸びている。——いい薬師になる」
ナーシャが嬉しそうに笑った。
◆
「でも」とナーシャがふと真面目な顔になった。「私が一人前になったら——フェン、約束を果たしたことになっちゃいますね」
その言葉に、私ははっとした。
フェンがナーシャとした約束。「一人前になるまで見ている」と。
その約束が果たされたら——フェンの生きる理由が一つ、消えてしまう。
◆
でも、フェンはこともなげに言った。
「案ずるな」とフェンは言った。「お前が一人前になったら——次は、お前の弟子が一人前になるのを見届ける。それまで死なん」
「それ、ずるいです!」とナーシャが笑った。「終わりがないじゃないですか」
「そうだ」とフェンは言った。「終わりがない。——だから、いい」
◆
私はその会話を聞きながら、胸が温かくなった。
フェンは——生きる理由を、自分で作り続けている。
一つの約束が果たされたら、次の約束を。
そうやって、少しでも長く、ここにいようとしている。私たちと一緒に。
◆
夕方、カイルが研究所に来た。
今日は王城の公務が、早く終わったらしい。
「フェンリル、調子がいいようですね」とカイルが言った。
「ああ」とフェンは言った。「夏は悪くない」
「よかった」とカイルは心から言った。「では——今度、みんなで出かけませんか」
◆
「出かける?」と私は聞いた。
「ええ」とカイルは言った。「夏になったら海が、きれいです。——フェンリルも海を見たことがないでしょう」
「海……」とフェンがつぶやいた。
「行きましょう、フェン!」とナーシャが言った。「海、行きましょう!」
◆
フェンがしばらく考えていた。
「……海か」とフェンは言った。「悪くない。——死ぬ前に一度、見てみたい気もする」
「死ぬ前になんて、言わないでください」とナーシャが言った。
「冗談だ」とフェンは言った。「生きて見る。——みんなでな」
◆
夏が近づいていた。
新しい計画が生まれていた。
みんなで海へ。フェンと、カイルと、ナーシャと——私と。
その約束が、また一つ、フェンの生きる理由になった。
窓の外で、夏の気配が少しずつ濃くなっていた。
いい夏になりそうだった。
(第122話へ続く)




