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夏の気配

 春が過ぎていった。


 ラベンダーの花が盛りを終え、薬草園には夏の気配が漂い始めた。


 日差しが強くなり、蝉の声が遠くで聞こえるようになった。


 研究所の暮らしは相変わらず穏やかだった。患者を診て、薬を作り、ナーシャを育てる。週に三日、王城から通う日々。


 そして——フェンは、まだここにいた。



 夏が近づくと、フェンの食欲が少し戻った。


 暑さに強い質なのかもしれなかった。


 ナーシャが毎日、フェンに好物を運んだ。患者のおばあさんたちも、滋養のいいものを持ってきてくれた。


 みんなの思いが——フェンを支えていた。



 ある朝、フェンが庭でゆっくりと歩いていた。


 以前より足取りはしっかりしていた。


「フェン、調子がいいですね」と私は言った。


「ああ」とフェンは言った。「夏は悪くない。——暑いのは嫌いだが、身体は軽くなる」



「このまま夏を越えられたら」と私は言った。


「越えるさ」とフェンは言った。「ナーシャと約束したからな。——あいつが一人前になるまでは死なん」


「ナーシャ、喜びます」


「あいつはすぐ泣くからな」とフェンは言った。「泣かれると調子が狂う」



 その日、ナーシャが新しい調合に挑戦していた。


 熱冷ましの薬だった。夏になると需要が増える。


 ナーシャは真剣な顔で、薬草を量り、混ぜていた。


 私は口を出さずに見守っていた。



 しばらくして、ナーシャができた薬を持ってきた。


「先生! できました! 見てください!」


 私はそれを確かめた。


 配合。色。香り。——どれも申し分なかった。


「……上手にできましたね」と私は言った。



「本当ですか!?」


「ええ。これなら患者さんに出せます」と私は言った。「あなた一人で、ここまでできるようになったのですね」


 ナーシャの顔が、ぱっと輝いた。


「やった……! 先生に認めてもらえた!」



 フェンが縁側から声をかけた。


「……一人前に近づいたな、弟子」


「フェン!」とナーシャが駆け寄った。「見ててくれましたか!」


「見ていた」とフェンは言った。「お前は伸びている。——いい薬師になる」


 ナーシャが嬉しそうに笑った。



「でも」とナーシャがふと真面目な顔になった。「私が一人前になったら——フェン、約束を果たしたことになっちゃいますね」


 その言葉に、私ははっとした。


 フェンがナーシャとした約束。「一人前になるまで見ている」と。


 その約束が果たされたら——フェンの生きる理由が一つ、消えてしまう。



 でも、フェンはこともなげに言った。


「案ずるな」とフェンは言った。「お前が一人前になったら——次は、お前の弟子が一人前になるのを見届ける。それまで死なん」


「それ、ずるいです!」とナーシャが笑った。「終わりがないじゃないですか」


「そうだ」とフェンは言った。「終わりがない。——だから、いい」



 私はその会話を聞きながら、胸が温かくなった。


 フェンは——生きる理由を、自分で作り続けている。


 一つの約束が果たされたら、次の約束を。


 そうやって、少しでも長く、ここにいようとしている。私たちと一緒に。



 夕方、カイルが研究所に来た。


 今日は王城の公務が、早く終わったらしい。


「フェンリル、調子がいいようですね」とカイルが言った。


「ああ」とフェンは言った。「夏は悪くない」


「よかった」とカイルは心から言った。「では——今度、みんなで出かけませんか」



「出かける?」と私は聞いた。


「ええ」とカイルは言った。「夏になったら海が、きれいです。——フェンリルも海を見たことがないでしょう」


「海……」とフェンがつぶやいた。


「行きましょう、フェン!」とナーシャが言った。「海、行きましょう!」



 フェンがしばらく考えていた。


「……海か」とフェンは言った。「悪くない。——死ぬ前に一度、見てみたい気もする」


「死ぬ前になんて、言わないでください」とナーシャが言った。


「冗談だ」とフェンは言った。「生きて見る。——みんなでな」



 夏が近づいていた。


 新しい計画が生まれていた。


 みんなで海へ。フェンと、カイルと、ナーシャと——私と。


 その約束が、また一つ、フェンの生きる理由になった。


 窓の外で、夏の気配が少しずつ濃くなっていた。


 いい夏になりそうだった。


(第122話へ続く)

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