ラベンダーの咲く頃
春が深まった。
研究所の薬草園で、ラベンダーが咲き始めた。
紫の小さな花が風に揺れて、甘い香りを漂わせていた。
ナーシャがそれを摘みながら、嬉しそうに言った。
「先生! ラベンダー、今年はよく咲きましたね!」
「ええ。——いい年になりそうです」
◆
約束を思い出した。
ラベンダーが咲いたらお持ちください、とアルヴィン殿下にお願いしていた。アンナさんに供えるためだった。
私はアルヴィン殿下に手紙を書いた。
——ラベンダーが咲きました。
それだけの短い手紙だった。
◆
数日後、アルヴィン殿下とカイルが揃って研究所に来た。
兄弟が並んで門をくぐる。
その光景を見て、私は胸が温かくなった。
少し前まで、考えられなかった光景だった。
◆
「ラベンダーをいただきに来ました」とアルヴィン殿下が言った。
その隣で、カイルが少し照れたように立っていた。
「兄上と一緒に」とカイルが言った。「アンナの墓に行こうと思っています。——二人で」
私は頷いた。
「では、たくさんお持ちください」
◆
ナーシャと一緒に、ラベンダーを束ねた。
紫の花束がいくつもできた。
アルヴィン殿下がその一つを手に取って、香りを嗅いだ。
「……アンナの香りだ」と彼は小さく言った。「アンナはいつも、この香りがしていた」
◆
「ラベンダーには」と私は言った。「心を落ち着かせる効能があります。きっとアンナさんもそれを知っていて、そばに置いていたのでしょうね」
「そうかもしれません」とアルヴィン殿下は言った。「アンナは——いつもわたしの心を落ち着かせてくれた。ラベンダーのように」
◆
カイルが兄の隣で、ラベンダーを見ていた。
「……俺も覚えています」とカイルがぽつりと言った。「アンナのラベンダーの香り。——兄上に抱っこされているとき、いつもこの香りがしていました」
アルヴィン殿下が弟を見た。
「お前を抱っこしたことがあったか」
「ありますよ」とカイルは言った。「忘れたんですか。——よく泣いている俺を抱っこして、あやしてくれた」
◆
「……すまない。覚えていない」とアルヴィン殿下が言った。
「いいんです」とカイルは笑った。「俺が覚えていますから。——一つずつ思い出していけば、いいんです」
兄弟が顔を見合わせて笑った。
その笑顔が、よく似ていた。
◆
二人がラベンダーの花束を持って、墓地へ向かおうとした。
その時、カイルが振り返った。
「エリーゼ。——あなたも来ませんか。アンナの墓に」
「私も、ですか」
「ええ」とカイルは言った。「あなたがいなければ、この日は来なかった。——アンナにも紹介したいのです。兄を救ってくれた人だと」
◆
私は少し迷った。
これは兄弟の時間だ。私が入っていいものか。
でも——アルヴィン殿下も頷いた。
「ぜひ」と彼は言った。「アンナに、あなたを会わせたい」
◆
私はフェンを見た。
フェンがゆっくりと立ち上がった。
「……俺も行く」とフェンは言った。「ラベンダーの咲くいい日だ。墓参りにはちょうどいい」
「フェン。無理は——」
「無理ではない」とフェンは言った。「今日は調子がいい。——それに、こういう日は外に出たくなる」
◆
四人で(フェンを入れて四人で)、墓地へ向かった。
春の丘は花でいっぱいだった。
アンナさんの墓に着くと、アルヴィン殿下がラベンダーの花束を供えた。
そして、墓石に語りかけた。
◆
「……アンナ。連れてきたよ。カイルと——それから、エリーゼ妃を」
アルヴィン殿下の声は穏やかだった。
「カイルとは仲直りした。少しずつだけど。——あなたがいつも言っていたね。『兄弟は仲良く』って。ようやくその言葉を守れそうだよ」
◆
カイルも墓石の前に膝をついた。
「アンナ。久しぶり。——兄上が戻ってきました。あなたが知っている、優しい兄上が」
二人の兄弟が並んで、墓石に手を合わせた。
その光景を、私は少し離れて見ていた。
◆
フェンが隣で、ぽつりと言った。
「……いい光景だ」
「ええ」
「お前が作った光景だ」とフェンは言った。
「私ではありません」と私は言った。「アンナさんが繋いだのです。——ラベンダーの香りが、二人の記憶を呼び覚ました」
◆
フェンが墓石を見た。
「……アンナという女は」とフェンは言った。「いい女だったのだろうな。死してなお、こうして人を繋ぐ」
「ええ」と私は言った。「きっと、素敵な人だったのでしょう」
風が、ラベンダーの香りを運んできた。
その香りは——どこか優しく、温かかった。
◆
墓参りを終えて、二人の兄弟が立ち上がった。
アルヴィン殿下が私の前に来た。
「エリーゼ妃」と彼は言った。「あなたに改めて、お礼を言わせてください」
「いえ、私は——」
「あなたは」とアルヴィン殿下は遮って言った。「わたしに、二つのものを取り戻してくれた。——弟と、自分自身を」
◆
「これからは」と彼は続けた。「あなたを義妹として、大切にします。そして——あなたの研究所も守ります。王立になどしません。あなたが自由に続けられるように」
「……ありがとうございます」と私は言った。
「いえ。——感謝するのは、わたしの方です」
◆
春の丘に、四人(と一頭)が立っていた。
ラベンダーの香りに、包まれて。
兄弟が和解し、敵だった人が家族になった。
誰も傷つけずに——みんなが幸せになる道を歩いていた。
それは、私がずっと信じてきた道だった。
ざまぁでも、復讐でもなく。——救いの道。
春の風が、紫の花を優しく揺らしていた。
(第118話へ続く)




