表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
116/182

兄、研究所へ

ある日、アルヴィン殿下から思いがけない申し出があった。


——あなたの研究所を見てみたい。


あれだけ「町の小さな診療所」と呼んでいた人が。自分から見たいと言ってきた。


私は少し驚いた。でも——嬉しかった。


「もちろんです」と、私は返事を書いた。「いつでもお越しください」



数日後、アルヴィン殿下が研究所にやって来た。


お忍びの簡素な身なりだった。供も最小限。王太子の威厳はどこにもなかった。


ただ一人の訪問者として、彼は門をくぐった。


「……これが、あなたの研究所ですか」


「はい。小さいですが」と私は言った。



「小さくはありません」と、アルヴィン殿下は言った。


以前と同じ言葉。でも——意味はまったく逆だった。


以前は「もったいない」という見下しの言葉。


今は——本物の敬意の言葉だった。



ちょうどナーシャが患者を診ているところだった。


子供の切り傷の手当て。手際よく消毒して、薬を塗って、包帯を巻いていく。


アルヴィン殿下は、その様子を静かに見ていた。


「あの子は」と、彼は聞いた。「あなたの弟子ですか」


「はい。ナーシャ、と言います」



手当てが終わると、ナーシャがこちらに気づいた。


「先生! いらっしゃ——」


そして、アルヴィン殿下を見て固まった。


「……え。あの。もしかして」


「第一王子の、アルヴィン殿下です」と私は言った。


ナーシャの顔がみるみる青ざめた。



「お、王太子殿下!? ど、どうしよう、私、こんな格好で——」


ナーシャが慌てて髪を整えようとした。


でも、アルヴィン殿下は穏やかに笑った。


「そのままで結構です」と、彼は言った。「今のあなたの手当て——見事でした」


「え……」



「迷いのない手つきだった。子供を怖がらせないように声をかけながら。——いい薬師になる」


ナーシャがぽかんと口を開けた。


それから真っ赤になって頭を下げた。


「あ、ありがとうございます……!」



アルヴィン殿下が研究所の中をゆっくりと見て回った。


薬棚。薬草園。患者の記録。


一つ一つを丁寧に見ていった。その目には——もう値踏みの色はなかった。ただ純粋な興味と感心があった。



「……すごいですね」と、彼はぽつりと言った。


「何がですか」


「ここには命がある」とアルヴィン殿下は言った。「王城にはないものだ。王城には権力と駆け引きと仮面しかない。——でも、ここには生きた命がある」



彼が薬草園のラベンダーの芽を見た。


「これは?」


「ラベンダーです。もう少しすると花が咲きます」


「花の名前を……」と、アルヴィン殿下がつぶやいた。


その目が遠くを見た。


「昔、わたしもカイルに、花の名前を教えていました」



「庭師の方から聞きました」と私は言った。


「ええ。——もう、ずいぶん忘れてしまいましたが」と彼は言った。「この、ラベンダーだけは覚えています。アンナが好きだった花なので」


「アンナさんが」


「ええ。——アンナの墓に、いつもラベンダーを供えていました」



私ははっとした。


そういえば——アンナさんの墓に最初に供えられていた花。あれはラベンダーだった。


「では、今度」と私は言った。「ここのラベンダーが咲いたら、お持ちください。アンナさんに」


アルヴィン殿下が私を見た。


その目が潤んだ。



「……いいのですか」


「もちろんです」と私は言った。「ここの薬草は、誰かのためにあります。アンナさんのためなら、喜んで」


「……ありがとう」と、アルヴィン殿下は小さく言った。



その時、縁側で寝ていたフェンがゆっくりと目を開けた。


アルヴィン殿下がフェンに気づいた。


「……聖獣殿。先日は失礼を」


フェンがしばらく、アルヴィン殿下を見ていた。


それから、ふん、と鼻を鳴らした。



「……顔が変わったな」とフェンは言った。


「顔が?」


「前に会ったときは、空っぽの目をしていた」とフェンは言った。「だが、今は——人の目をしている。中身が戻ったようだ」


アルヴィン殿下がフェンの前に片膝をついた。



「聖獣殿」と、彼は言った。「あなたの言葉を覚えています。『甘い果実には種がある。お前の種は何だ』と」


「覚えていたか」


「ええ。——あの時は答えられませんでした。でも、今ならわかります」


アルヴィン殿下が静かに言った。


「わたしの種は——失う怖さ、でした。もう誰も失いたくなくて。だから誰も愛さないようにしていた。——それが、わたしの種でした」



フェンが目を細めた。


「……よく気づいた」


「エリーゼ妃のおかげです」


「いや」とフェンは言った。「気づいたのは、お前自身だ。エリーゼは、ただ鏡を差し出しただけ。——映ったものを見たのは、お前だ」



春の日差しが研究所の庭を照らしていた。


アルヴィン殿下が立ち上がって、庭を見渡した。


その顔は——穏やかだった。作り物ではない、本物の穏やかさ。


「……いい場所ですね」と、彼は言った。「また来てもいいですか」


「いつでも」と私は言った。「ここは誰にでも開かれています」



アルヴィン殿下が頷いた。


そして帰り際、ナーシャに、もう一度声をかけた。


「ナーシャさん。——いい薬師になってください。この国には、あなたのような人が必要です」


「は、はい! 頑張ります!」



アルヴィン殿下が帰っていった。


その背中は——以前の完璧で空っぽな王太子の背中とは違っていた。


少し軽くなった、人間の背中だった。


ナーシャがぽつりと言った。


「……あの方、優しい人ですね」


「ええ」と私は言った。「最近、優しさを思い出したのです」


春の風がラベンダーの芽を揺らしていた。


(第117話へ続く)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ