表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
109/182

兄の話

 その夜、カイルが帰ってきてから、私は庭師のおじいさんの話を伝えた。


 昔のアルヴィン殿下のこと。カイルの手を引いて花の名前を教えていたこと。転んだカイルをおんぶして運んだこと。


 カイルはしばらく黙って聞いていた。


 そして——ぽつりと言った。


「……覚えています。その、膝を擦りむいた日のこと」



「覚えているのですか」


「ええ」とカイルは言った。「四つか五つの頃でした。兄の背中で泣いていたのを覚えています。兄が——『大丈夫、僕がいる』と言ってくれた」


 カイルの目が遠くを見た。


「あの背中は温かかった。——あれが俺の知る、本当の兄です」



「乳母の方のことは、ご存知でしたか」と私は聞いた。


 カイルが頷いた。


「アンナ、という人でした」と彼は言った。「兄の乳母です。——優しい人でした。兄だけでなく、俺のことも可愛がってくれた」


「カイルも慕っていたのですね」


「ええ。でも——兄にとっては特別でした。母上が公務で忙しい方だったので。兄はアンナを本当の母のように思っていた」



「その方が、亡くなって」


「……はい」とカイルは言った。「流行り病でした。あっという間で——誰も何もできなかった。兄はその時十二歳で。俺は八歳でした」


 カイルが少し目を伏せた。


「兄は葬儀で一滴も泣きませんでした」



「泣かなかった?」


「ええ」とカイルは言った。「八歳の俺はわんわん泣いていました。でも兄は——じっと立っていました。表情も変えずに」


 私ははっとした。


 泣かなかった、アルヴィン殿下。


 それは——七年前の私と同じだった。


 あまりに深い悲しみは、涙すら凍らせる。



「その後、兄は変わりました」とカイルは続けた。「勉強に打ち込むようになって。剣も政も、何もかも完璧にこなすように。——でも笑わなくなった。いや、笑うんです。でも、その笑いが——」


「作り物の笑いに」


「ええ」とカイルは驚いたように私を見た。「……どうして、それを」



「庭師の方も同じことを言っていました」と私は言った。「前とは違う笑い方になった、と」


 カイルがしばらく黙った。


 それから、絞り出すように言った。


「……俺はずっと思っていました。兄はアンナの死で心を閉ざしたのだ、と。でも——どうすればいいかわからなかった。俺はまだ子供で。兄に何も言えなかった」



「カイル」と私は言った。


「はい」


「あなたは悪くありません」


「でも——」


「八歳の子供に何ができたでしょう」と私は言った。「お兄様の心を救えなかったのは、あなたのせいではありません。それは——大人たちの責任です」


 カイルが目を伏せた。



「俺は」とカイルは小さく言った。「兄を見捨てたような気がしていました。兄が変わっていくのを、ただ見ていることしかできなくて」


「見ていた、ということは」と私は言った。「見捨てていない、ということです」


「え?」


「本当に見捨てた人は、相手のことを見ません」と私は言った。「あなたはずっと、お兄様を見ていた。変わっていく姿を悲しみながら。——それは見捨てていない証拠です」



 カイルが私を見た。


 その目に、わずかに光るものがあった。


「……あなたは」と、彼は言った。「いつも俺が欲しい言葉をくれる」


「本当のことを言っただけです」


「その本当のことが——一番欲しいものなのです」とカイルは言った。



 フェンが窓辺でゆっくりと頭を上げた。


「……アンナ、という乳母」とフェンは言った。「その者の墓は、どこにある」


 私とカイルは顔を見合わせた。


「墓、ですか」


「ああ」とフェンは言った。「心をしまい込んだ場所には、たいてい鍵がある。——その乳母の墓は、アルヴィンにとって鍵の一つかもしれん」



「兄がアンナの墓に行くことは」とカイルが考えた。「……いや。少なくとも公式には、ありません。あの人はもう、アンナの話すらしなくなったので」


「公式には、な」とフェンは言った。「だが——一人のときは、どうだ」


 カイルがはっとした。



「もしかすると」とカイルはゆっくりと言った。「兄は一人で、墓参りを——」


「確かめる価値はある」とフェンは言った。「もし、あの男が今でも一人でその墓に通っているなら。——あの男の心は、まだ死んでいない」


 春の夜の静けさの中で。


 その言葉が、確かな希望のように響いた。



「カイル」と私は言った。「アンナさんのお墓、わかりますか」


「……調べればわかると思います」とカイルは言った。「王城の関係者が眠る墓地に、あるはずです」


「では」と私は言った。「行ってみましょう。——アルヴィン殿下の鍵を探しに」



 カイルが頷いた。


 その顔には、長い間抱えてきた諦めとは違うものが——小さな、けれど確かな希望が灯っていた。


「……兄を取り戻せるかもしれない」


「まだわかりません」と私は言った。「でも——手を伸ばしてみましょう」


 春の夜空に星が瞬いていた。


 しまい込まれた心への扉。


 その鍵の在り処を、私たちは探し始めた。


(第110話へ続く)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ