春の兆し
数日が過ぎた。
アルヴィン殿下からは、あれ以来、何の音沙汰もなかった。
拍子抜けするくらい、静かだった。
でも——その静けさが、かえって何かを待っているような気もした。
考えても仕方がなかった。私は、いつも通りの日々を過ごすことにした。
◆
その日は、研究所に通う日だった。
馬車を降りると、ナーシャが薬草園の前でしゃがんでいた。
「ナーシャ、何を見ているのですか」
「先生! 見てください、これ!」
ナーシャが指差した先を見ると——枯れた土の中から、小さな緑が顔を出していた。
◆
「ラベンダーの芽です」とナーシャが言った。
冬の間、根だけになって、土の下で眠っていたラベンダー。
その根から、新しい芽が出ていた。
まだ小さく、頼りない。でも、確かに緑だった。
「……春ですね」と私は言った。
「春です!」とナーシャが嬉しそうに言った。
◆
フェンが、ゆっくりと薬草園に出てきた。
冬の間、あまり外に出なかったフェンが、今日は自分から外に出た。
「……春の匂いがする」とフェンは言った。
「フェンも、わかるのですか」
「当然だ。鼻なら、お前より利く」
フェンが、薬草園の真ん中で伏せた。
まだ弱い春の日差しを、白い毛並みに浴びていた。
◆
その姿は、冬の間より少しだけ元気そうに見えた。
「フェン。少し、よくなりましたか」
「気のせいだろう」とフェンは言った。「だが——春は、悪くない。冬を越えられたのは、めでたい」
「越えられました」
「ああ。お前の婚礼も見た。ナーシャの成長も見ている。——欲張った甲斐があった」
◆
ナーシャが、フェンの隣に座った。
「フェン。今年の春は、一緒に薬草を植えましょう」
「俺は、植えられんぞ」
「見ててくれるだけで、いいんです」とナーシャは言った。「フェンが見ててくれると、薬草がよく育つ気がするんです」
「迷信だ」
「迷信でもいいんです」
◆
私は、二人(一人と一匹)のやりとりを聞きながら、薬草園を見渡した。
二年前、ここに来たとき。
この薬草園は、ただの荒れた土地だった。
それを、一本ずつ植えて、育てて、今の形にした。失敗もした。枯らしもした。でも——少しずつ、ここは緑の園になった。
◆
「先生」とナーシャが言った。
「はい」
「私、最近、思うんです」
「何をですか」
「先生がいなくても、研究所がちゃんと回るようになりました。でも——それって、ちょっと寂しいことでもあるなって」
ナーシャが、ラベンダーの芽を、そっと撫でた。
◆
「寂しい?」
「だって、先生がいなくても大丈夫って、先生がいらなくなるってことみたいで」
私は、ナーシャの隣にしゃがんだ。
「ナーシャ。それは、違います」
「違う?」
「あなたが一人でできるようになったのは、私がいらなくなったからではありません。あなたが育ったからです。——それは、寂しいことではなく、誇らしいことです」
◆
「でも」
「私は、いなくなりません」と私は言った。「週に三日、ここに来ます。あなたが困ったときは、手紙を書けばすぐに返します。——いなくなるわけではないのです。ただ、関わり方が変わるだけ」
ナーシャが、しばらく黙っていた。
それから、小さく頷いた。
「……はい」
◆
「それに」と私は付け加えた。「いつか、あなたにも弟子ができます」
「私に!?」
「ええ。あなたが一人前になれば、今度は、あなたが誰かを育てる番です。——そうやって、繋がっていくのです。薬師の知識も、この研究所も」
ナーシャが、目を輝かせた。
「私が、先生になる……」
「立派な先生になれます」
◆
フェンが、目を細めてこちらを見た。
「……いい話だ」
「フェン」
「人は、繋がっていく。一人が倒れても、次が立つ。——それが、人間の強さだ」
フェンの声には、どこかしみじみとしたものがあった。
自分が、いずれいなくなることを——わかっているからこその言葉かもしれなかった。
◆
「フェン」と私は言った。
「なんだ」
「あなたも、繋がっています」
「俺が?」
「あなたが私に教えてくれたことを、私は、ナーシャに教えています。ナーシャは、いつか誰かに教えます。——あなたの優しさは、そうやって、ずっと繋がっていきます」
◆
フェンが、しばらく黙っていた。
それから、ふっと息を吐いた。
「……お前は、本当にいいことを言う」
「本当のことを言っただけです」
「ああ。だから、いいのだ」
春の日差しが、薬草園に降り注いでいた。
ラベンダーの小さな芽が、その光を浴びて、ほんの少し伸びた気がした。
◆
帰りの馬車の中で、私は思った。
冬は、終わった。
春が、来た。
アルヴィン殿下のことは、まだわからない。これから、何かが起きるのかもしれない。
でも——今日のような日が、確かにある。
小さな芽が出て、弟子が育って、相棒が春の日差しを浴びている。
そういう日が、ある限り。
私は、きっと大丈夫だった。
馬車の窓から、春の風が入ってきた。
その風は、もう冷たくなかった。
(第105話へ続く)




