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春の兆し

 数日が過ぎた。


 アルヴィン殿下からは、あれ以来、何の音沙汰もなかった。


 拍子抜けするくらい、静かだった。


 でも——その静けさが、かえって何かを待っているような気もした。


 考えても仕方がなかった。私は、いつも通りの日々を過ごすことにした。



 その日は、研究所に通う日だった。


 馬車を降りると、ナーシャが薬草園の前でしゃがんでいた。


「ナーシャ、何を見ているのですか」


「先生! 見てください、これ!」


 ナーシャが指差した先を見ると——枯れた土の中から、小さな緑が顔を出していた。



「ラベンダーの芽です」とナーシャが言った。


 冬の間、根だけになって、土の下で眠っていたラベンダー。


 その根から、新しい芽が出ていた。


 まだ小さく、頼りない。でも、確かに緑だった。


「……春ですね」と私は言った。


「春です!」とナーシャが嬉しそうに言った。



 フェンが、ゆっくりと薬草園に出てきた。


 冬の間、あまり外に出なかったフェンが、今日は自分から外に出た。


「……春の匂いがする」とフェンは言った。


「フェンも、わかるのですか」


「当然だ。鼻なら、お前より利く」


 フェンが、薬草園の真ん中で伏せた。


 まだ弱い春の日差しを、白い毛並みに浴びていた。



 その姿は、冬の間より少しだけ元気そうに見えた。


「フェン。少し、よくなりましたか」


「気のせいだろう」とフェンは言った。「だが——春は、悪くない。冬を越えられたのは、めでたい」


「越えられました」


「ああ。お前の婚礼も見た。ナーシャの成長も見ている。——欲張った甲斐があった」



 ナーシャが、フェンの隣に座った。


「フェン。今年の春は、一緒に薬草を植えましょう」


「俺は、植えられんぞ」


「見ててくれるだけで、いいんです」とナーシャは言った。「フェンが見ててくれると、薬草がよく育つ気がするんです」


「迷信だ」


「迷信でもいいんです」



 私は、二人(一人と一匹)のやりとりを聞きながら、薬草園を見渡した。


 二年前、ここに来たとき。


 この薬草園は、ただの荒れた土地だった。


 それを、一本ずつ植えて、育てて、今の形にした。失敗もした。枯らしもした。でも——少しずつ、ここは緑の園になった。



「先生」とナーシャが言った。


「はい」


「私、最近、思うんです」


「何をですか」


「先生がいなくても、研究所がちゃんと回るようになりました。でも——それって、ちょっと寂しいことでもあるなって」


 ナーシャが、ラベンダーの芽を、そっと撫でた。



「寂しい?」


「だって、先生がいなくても大丈夫って、先生がいらなくなるってことみたいで」


 私は、ナーシャの隣にしゃがんだ。


「ナーシャ。それは、違います」


「違う?」


「あなたが一人でできるようになったのは、私がいらなくなったからではありません。あなたが育ったからです。——それは、寂しいことではなく、誇らしいことです」



「でも」


「私は、いなくなりません」と私は言った。「週に三日、ここに来ます。あなたが困ったときは、手紙を書けばすぐに返します。——いなくなるわけではないのです。ただ、関わり方が変わるだけ」


 ナーシャが、しばらく黙っていた。


 それから、小さく頷いた。


「……はい」



「それに」と私は付け加えた。「いつか、あなたにも弟子ができます」


「私に!?」


「ええ。あなたが一人前になれば、今度は、あなたが誰かを育てる番です。——そうやって、繋がっていくのです。薬師の知識も、この研究所も」


 ナーシャが、目を輝かせた。


「私が、先生になる……」


「立派な先生になれます」



 フェンが、目を細めてこちらを見た。


「……いい話だ」


「フェン」


「人は、繋がっていく。一人が倒れても、次が立つ。——それが、人間の強さだ」


 フェンの声には、どこかしみじみとしたものがあった。


 自分が、いずれいなくなることを——わかっているからこその言葉かもしれなかった。



「フェン」と私は言った。


「なんだ」


「あなたも、繋がっています」


「俺が?」


「あなたが私に教えてくれたことを、私は、ナーシャに教えています。ナーシャは、いつか誰かに教えます。——あなたの優しさは、そうやって、ずっと繋がっていきます」



 フェンが、しばらく黙っていた。


 それから、ふっと息を吐いた。


「……お前は、本当にいいことを言う」


「本当のことを言っただけです」


「ああ。だから、いいのだ」


 春の日差しが、薬草園に降り注いでいた。


 ラベンダーの小さな芽が、その光を浴びて、ほんの少し伸びた気がした。



 帰りの馬車の中で、私は思った。


 冬は、終わった。


 春が、来た。


 アルヴィン殿下のことは、まだわからない。これから、何かが起きるのかもしれない。


 でも——今日のような日が、確かにある。


 小さな芽が出て、弟子が育って、相棒が春の日差しを浴びている。


 そういう日が、ある限り。


 私は、きっと大丈夫だった。


 馬車の窓から、春の風が入ってきた。


 その風は、もう冷たくなかった。


(第105話へ続く)

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