第10話「次は自分のために」
夕暮れの縁側で、私は初めて、自分のやりたいことを声に出した。
「薬草研究所を、作りたいのです」
殿下が静かに聞いていた。
「近隣の方々が薬を求めて来てくださるようになりました。でも、ヴァルハイン家の庭だけでは限界があります。もっと多くの薬草を育てて、もっと多くの人に届けられる場所を——」
「資金は」
殿下が短く聞いた。
「……今は、ありません」
「土地は」
「これも、今は」
「許可は」
「……全部、これからです」
我ながら、何もないと言っているようなものだった。
でも、殿下は呆れた顔をしなかった。
「そうですか」とだけ言って、少し考え込んだ。
◆
フェンが私の隣で体を起こして、殿下をじっと見た。
「お前は何を考えている」
「……聖獣に聞かれるとは思いませんでした」
「答えろ」
殿下が少しの間があってから、静かに口を開いた。
「王家には、使われていない土地がいくつかあります。薬草研究のための土地として提供できるものがあるかもしれない」
私は目を丸くした。
「そんな、そこまでしていただくわけには——」
「あなたの薬は、すでに人の命を救っています。国として、それを支援する理由があります」
「でも」
「それに」
殿下が少し間を置いた。切れ長の目が、真っすぐに私を向いた。
「俺が、したいのです」
静かな声だった。
押しつけがましくもなく、強制するわけでもない。ただ、迷いがなかった。
私はしばらく、何も言えなかった。
七年間、誰かのために動き続けた。
誰かに「してあげたい」と言ってもらったことは——なかった気がする。
「……ありがとうございます」
声が、少しだけかすれた。
◆
殿下が帰り際に立ち止まって、振り返った。
「一つだけ、聞いていいですか」
「どうぞ」
「ガーランド家にいた七年間。幸せでしたか」
不意打ちだった。
私はしばらく考えた。幸せだったか。幸せではなかったか。どちらとも言い切れない気がした。
「……幸せを求めていなかった、と思います。役に立てれば十分だと思っていました」
「今は」
「今は」
私はフェンを見た。白銀の毛並みが夕陽に染まって、金色に輝いていた。
「幸せになっていいかもしれない、と思い始めています」
殿下がそれを聞いて、また微笑んだ。今日一番、はっきりとした笑顔だった。
「……それが聞きたかった」
「なぜですか」
「そういうあなたに、改めてお願いがあるからです」
「お願い?」
殿下が一歩、こちらへ踏み出した。
「俺と、もう少し話をする時間をもらえませんか。研究所の話も含めて。……それ以外のことも」
「それ以外、とは」
「あなたのことを、もっと知りたい」
夕暮れの橙色の中で、殿下の目が真剣だった。
私の胸が、静かに揺れた。
七年ぶりではなく——もしかしたら、生まれて初めての感覚かもしれなかった。
「……わかりました」
私は静かに答えた。
「お時間をいただきます」
フェンがため息をついた。大きくて、盛大なため息だった。
「……何ですか、フェン」
「別に」
「絶対に何かあります」
「うるさい」
フェンは横を向いた。耳の先だけが、少しだけ赤みがかって見えた。
気のせいかもしれない。でも、私は少しだけ笑った。
——次は、自分のために生きてみよう。
その言葉が、初めて本当の意味で、腑に落ちた夜だった。
翌朝、思いがけない知らせが届いた。
ミレーヌという女性の、出自に関わる話だという。
(第11話へ続く)




