ある男
森の奥深くをその男は訪れていた。近くには森の魔女が住んでいると言われる小屋がある。男の目の前には石を立てかけただけの墓があり、さらにその土の下には亡骸が埋まっていない形だけの墓だった。それでも男はこれが本当の墓であると主張する。彼女が穏やかに眠れる場所は唯一ここであるのだと。
彼女だけにはやたらと気を掛ける変わり者の魔女のおかげで、墓の周りはいつも整えられていた。それに男は満足気に微笑んだ。
男の身なりは貴族でないのに、質の良いものばかりだった。それが元は貧困街出身の浮浪児であったというのだから驚きだ。
男は一つの花束を墓の前に供えた。
「女王様。僕です。女王様がお好きでいらした花も持参しました。喜んでくださるでしょうか」
もちろん男に対する返事はない。男は構わず続けた。
「申し上げましたでしょう。僕は女王様のためだけに存在するのです。女王様は僕にただ一言、私のために死になさいと命じてくださればよかったのです」
悪逆非道の女王として君臨した彼女だった。しかし男にとっては唯一の人であった。
男は彼女に対して献身した。それは決して苦役などではなく、男が幸福だと感じる行為だった。
彼女に尽くした男は、世界で誰よりも彼女のことを理解していた。言葉にせずともこの花の香りを好んでいたことや、味付けの好みまでもを知っていた。
だから、男は本当は彼女がどうしてあのような命令を下したのかを知っていた。
「女王様、どうして、僕をお連れしてくださらなかったのですか……」
男は彼女を愛していた。同様に、彼女もまた男を愛していた。彼女は男を同じ場所へ連れて行くことを是としなかった。男にとって一人取り残されることは身を焼かれるよりもつらい出来事だった。
「女王様がうとんだ王家はもう存在しません。僕が存在させません。絶対に、女王様のような悲劇を繰り返させはしません」
それを望んでおられたのでしょう、と男は確認するかのように問い掛けた。
女王の国は滅びた。王政が廃止されたことで、もう二度と、この世を恨んだ女王のような者は存在しなくなる。生まれながらの地位が幾人をも狂わせた。女王のように無き者として扱われる者や、男のように貧困であえぐ者が誕生した。女王は父親だけではなく、その先の抗いようもないほど根づいた観念を憎んでいた。
「革命軍の指導者であった元宰相のご子息に、議員にならないかとのお誘いを受けました。女王様のおかげです」
女王が必要な教養を授けたからこそ、男は罪を免れ、こうしてまともな生活を送れるようになっていた。議会の重要な役割を任せようとの話が持ち上がるほどにだ。
「しかし、僕はそのお話を断らせてもらいました」
男は目に涙を溜めた。
「僕はあの人が憎いです。女王様を殺したあの人が憎いです。女王様を殺したこの世が憎いです。女王様のように復讐をしたいと思うほどに、恨めしいです」
しかし男はそうはしなかった。彼女が望んでいることが何たるかを知っているからだ。
男の懐には、彼女がいつも身に着けていたナイフがあった。だが男はそのナイフで憎む男を刺しはしないだろう。自らの胸を貫きはしないだろう。彼女は男に生きることを望んでいる。
ぽたりぽたりと、男の頬を流れた涙が地面に落ちた。
「僕は女王様のために存在します。来世というものがあるのならば、僕は必ず、また女王様のお側にお仕えします」
まるで彼女の心のざわめきを意図するかのように、木々がざわめいた。
もし彼女が実在するのであれば、男は今すぐ彼女に駆け寄って、その体を抱き締めたかった。
「女王様。愛しています」
男に対する答えはなかった。ただ木々だけがそよめいていた。




