第5話「帝国の至高なる賓客と、深まる独占欲」
白いレースのカーテンが、開け放たれた窓から吹き込む朝風に揺れている。
カーテンの隙間から差し込む光は、細かな金色の粒となって、部屋の絨毯の上に幾何学的な模様を描き出していた。
エレニアは、大きな天蓋付きのベッドの中で静かに目を覚ました。
身体を包む寝具は、まるで雲のように柔らかく、寝返りを打つたびに心地よい温もりが肌を撫でる。
かつて暮らしていたベルン王国の公爵邸では、薄い敷布団と冷え切った部屋が当たり前だった。
夜通し行われる魔力精製の作業の後、凍えるような暗闇の中で数時間だけ横になるのが彼女の日課だったからだ。
ここでの目覚めは、それとは比較にならないほどに穏やかで、満ち足りていた。
ノックの音が静かに二回、部屋の扉を叩いた。
入ってきたのは、年配の侍女であるイレーネだった。
彼女は銀の大きなトレイを両手で支え、音を立てずに歩み寄ってくる。
トレイの上には、湯気を立てる純白の陶器が並んでいた。
「エレニア様、おはようございます。よくお眠りになれましたか。本日の朝食をお持ちいたしました」
イレーネはベッドの脇にある丸テーブルに、手際よく料理を並べていく。
こんがりと黄金色に焼けた厚切りのパンからは、香ばしい小麦の香りが立ち上っている。
その隣には、新鮮な乳製品から作られた濃厚なバターと、色鮮やかなイチゴのジャムが添えられていた。
深皿に盛られたスープは、何時間もかけて煮込まれたことが分かるほど、澄んだ琥珀色をしている。
細かく刻まれた野菜と柔らかな肉が、スープの中で静かに揺れていた。
「ありがとうございます、イレーネ。ですが、私のような者に、これほどの手間をかけていただくのは、やはり申し訳なくて」
エレニアはシーツを胸元まで引き上げながら、視線を伏せた。
彼女の指先は、まだ薄い赤みを帯びている。
長年の過酷な作業によって傷ついた皮膚は、数日間の休息だけでは完全には元に戻らない。
自分は国を追われた身であり、本来なら冷遇されても文句は言えない立場なのだという思いが、いまだに彼女の胸の奥に澱のように残っていた。
「何を仰いますか。アルフレート殿下からは、貴女様を我が国の最高位の賓客としておもてなしするようにと、厳命されております。このイレーネ、手抜きなどいたしましたら殿下にどのようなお叱りを受けるか分かりませんわ」
イレーネは茶目っ気のある笑みを浮かべ、スープのスプーンをエレニアの手に握らせた。
その温かい手のひらの感触に、エレニアの頑なな心が少しだけ緩む。
彼女はスプーンを口元へ運び、スープを一口、口に含んだ。
口いっぱいに広がる豊かな旨味と、身体の芯を温める熱が、喉を通り抜けていく。
美味しい、という感情が、これほどまでに胸を震わせるものだとは知らなかった。
ベルン王国では、カビの生えたパンの端切れや、冷めきった残り物のスープが彼女の食事のすべてだった。
生きるためだけに無理やり喉に流し込む作業とは違い、今は一匙ごとに、自分の存在が全肯定されているような感覚を覚える。
エレニアはゆっくりと、しかし確実に料理を平らげていった。
皿が空になるたびに、彼女の瞳に小さな輝きが戻っていくのを、イレーネは満足そうに見つめていた。
◆ ◆ ◆
午後になり、エレニアは離宮に併設された温室へと足を運んだ。
ガラス張りの巨大な建物の中は、外の涼しい空気とは異なり、南国の春を思わせる温かさに満ちている。
色とりどりの珍しい花々が咲き誇り、甘い香りが空気を満たしていた。
エレニアが通路を歩くと、彼女の足元にある草花が、微かに身震いをするように葉を揺らした。
彼女の身に宿る精霊の祝福が、周囲の植物たちと呼応しているのだ。
花びらの色が心なしか鮮やかさを増し、萎れかけていた蕾がゆっくりと開き始める。
その光景を見つめながら、エレニアは自身の内に眠る力が、決して呪われたものではなかったのだと、ようやく実感しつつあった。
背後で、重厚な扉が開く音がした。
振り返ると、そこには黒い仕立ての良い上着をまとったアルフレートが立っていた。
彼の長い足が、大理石の床を規則正しいリズムで叩く。
その姿を見つけた瞬間、エレニアの胸の鼓動が、トクンと小さな音を立てて跳ね上がった。
「ここにいたか」
アルフレートは彼女の前に立つと、冷徹と噂されるその顔を、僅かに和らげた。
彼の瞳は、温室のガラスを透過した光を受けて、深い海の底のような色を湛えている。
彼はエレニアの顔をじっと見つめ、その頬に健康的な赤みが差しているのを確認すると、小さく頷いた。
「少しは身体が休まったようだな。顔色が良くなった」
「はい、アルフレート殿下。皆様が本当に良くしてくださるので、信じられないほどに快適に過ごさせていただいております」
エレニアは小さくお辞儀をしたが、アルフレートはその距離をさらに縮めてきた。
彼の身体から漂う、微かな白檀の香りがエレニアの鼻腔をくすぐる。
彼は躊躇うことなく手を伸ばし、エレニアの右手をそっと持ち上げた。
彼の大きな手のひらに比べると、エレニアの手はあまりにも小さく、華奢だった。
アルフレートの視線が、彼女の指先に注がれる。
皮膚の荒れや、爪の付け根に残る細かな傷跡を、彼は愛おしむように親指の腹で優しく撫でた。
「……まだ傷が残っているな。ベルン王国の連中は、この手をどれほど酷使していたのだ」
彼の声に、低く、押し殺したような怒りの響きが混じる。
しかし、その怒りはエレニアに向けられたものではない。
彼女を傷つけた者たちへの、底知れない敵意だった。
アルフレートはもう片方の手で、上着の内ポケットから小さな硝子瓶を取り出した。
中には、淡い金色をした、薔薇の香りのする高価な軟膏が入っていた。
「殿下、このようなことは侍女にさせますので」
「いや、私がやりたい」
アルフレートの言葉は簡潔で、しかし拒絶を許さない強さがあった。
彼は温室のベンチにエレニアを座らせると、自らもその隣に腰を下ろした。
二人の距離は、肩が触れ合うほどに近かった。
アルフレートは指先に少量の軟膏を取ると、エレニアの手に、まるで壊れやすい硝子細工に触れるかのような手つきで、丁寧に塗り伸ばしていった。
彼の指先から伝わる体温が、エレニアの肌を通して、胸の奥へとまっすぐに伝わってくる。
その熱さに、エレニアの呼吸が自然と浅くなった。
彼女のうなじを、微かな汗が伝う。
「お前の手は、大地の奇跡を紡ぐための尊い手だ。これからは、いかなる苦役もお前を縛ることはない。この国で、私の目の届く場所で、ただ望むように生きればいい」
アルフレートは軟膏を塗り終えると、彼女の手を両手で包み込み、自らの胸元へと引き寄せた。
彼の力強い心臓の鼓動が、エレニアの指先を通じて響いてくる。
彼の瞳の奥にあるのは、冷徹さではなく、剥き出しの独占欲だった。
誰にも渡したくない、自分だけのものにしたいという強い熱量が、その視線から溢れ出している。
エレニアは、その熱に浮かされるように、ただ彼の瞳を見つめ返すことしかできなかった。
かつて失われた自己肯定感が、彼の深い溺愛によって、確実に、そして急速に満たされていくのを感じていた。




