第12話「至高の誓い、星空の下のプロポーズ」
大舞踏会の華やかな喧騒は、宮殿の奥にある秘密の空中庭園には、ほとんど届かなかった。
夜風が、エレニアのまとっている「星紡ぎの絹」のドレスを、優しく揺らしている。
生地に織り込まれた細かな結晶が、頭上の本物の星空と呼応するように、静かに、そして美しく明滅を繰り返していた。
エレニアは、白い大理石のバルコニーの欄干にそっと手をかけ、夜の澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
彼女の首元で揺れるエメラルドグリーンの結晶は、先ほどの奇跡の後も、変わらぬ清らかな温もりを放ち続けている。
『本当に、すべてが終わったんだ』
胸の奥を占めていた、あの冷たい泥のような感覚は、今はもう跡形もなく消え去っていた。
誰の役にも立てない、無能な悪役令嬢としての自分は、あの光の中で完全に消滅したのだ。
今の彼女の心を満たしているのは、自らの力で誰かを救うことができたという、確かな自己肯定感だった。
背後で、衣服が擦れる静かな音がした。
振り返るまでもなく、その主が誰であるかは分かっていた。
エレニアの鼻腔に、彼特有の白檀の香りが届く。
アルフレートは、彼女の隣へと歩み寄り、同じように欄干へと手を置いた。
二人の肩が、微かに触れ合う。
その至近距離から伝わってくる彼の体温が、エレニアの頬を自然と熱くさせた。
「ここにいたか、エレニア。夜風は寒くないか」
「はい、アルフレート殿下。このドレスがとても温かいので、心地よいほどです。それに、胸の奥が、とても穏やかなのです」
エレニアは彼を見上げ、心からの笑顔を浮かべた。
彼女の瞳には、夜空の星々と、そして目の前にいる美しい青年の姿が、鮮明に映り込んでいる。
アルフレートは、彼女のその表情を愛おしそうに見つめると、静かにため息を一つ吐いた。
彼の瞳の奥には、これまでにないほどの深い熱量と、一人の女性への狂おしいほどの溺愛が隠されることなく溢れ出している。
「お前が笑ってくれるなら、私は世界中のあらゆるものを敵に回しても構わない。エレニア、お前が我が国に来てくれたあの日から、私の世界は完全に変わったのだ」
アルフレートはそう言うと、エレニアの正面へと回り込み、彼女の両手を自らの大きな手で包み込んだ。
彼の指先は、出会ったあの雨の日のように冷たくはなかった。
エレニアの力を受けて、健康的な熱を帯びた、力強い大人の男の手だった。
「私は生まれながらの膨大な魔力のせいで、常に身体を内側から焼き尽くされるような苦痛の中にいた。誰もその痛みを理解してはくれず、周囲からは冷徹な王太子として恐れられるばかりだった。孤独な暗闇の中で、ただ義務を果たすためだけに生きていたのだ」
彼の低い声が、夜風に混じってエレニアの耳朶を優しく打つ。
彼の告白を、エレニアは瞬きもせずに静かに聞き入っていた。
「だが、あの雨の森でお前を見つけ、抱き上げた瞬間、私の痛みがすべて消え去った。お前の清らかな力が、私の冷え切った心を、身体を、完璧に癒やしてくれたのだ。お前は私の命の恩人であり、私の世界に光をもたらしてくれた、唯一無二の存在だ」
アルフレートの視線は、真っ直ぐにエレニアの心の奥底へと注がれていた。
言葉を介さずに交わされる濃密な熱に、エレニアは呼吸を忘れてしまうほどだった。
彼女のうなじを、心地よい緊張の汗が伝う。
アルフレートは、その場で静かに一歩を引き、大理石の床へと片膝をついた。
帝国の次期皇帝であり、圧倒的な権力を有する王太子が、一人の女性の前で、最高の敬意をもってひざまずいている。
彼は懐から、ひとつの小さな指輪の箱を取り出し、それをエレニアの前で開いた。
中に収められていたのは、彼女の紡ぎ出したエメラルドグリーンの結晶の細片を、最高級のダイヤモンドで囲んだ、世界に一つだけの婚約指輪だった。
「エレニア・フォン・アールスト。私と共に、これからの未来を歩んでくれないか。お前のその傷ついた過去のすべてを、私が生涯をかけて上書きし、溺愛し抜くと誓おう。私の王妃として、私の生涯の唯一の伴侶として、私の隣にいてほしい」
彼の真っ直ぐな、偽りのない求婚の言葉が、エレニアの胸の奥に眠っていた最後の涙の栓を抜いた。
彼女の目から、大粒の涙が次々と零れ落ち、星紡ぎのドレスの上に小さな光のシミを作っていく。
しかし、それは悲しみの涙ではなかった。
これほどまでに愛され、必要とされ、自らの存在を肯定されたことへの、至高の喜びの涙だった。
「……はい、アルフレート殿下。私でよろしければ、喜んで、貴方様の隣にいさせてください。貴方様と共に、本当の真実の愛を、紡いでいきたいです」
エレニアは涙を拭うこともせず、力強く頷いた。
アルフレートの顔に、これまでにないほど眩い、完璧な幸せに満ちた笑みが浮かんだ。
彼は立ち上がり、エレニアの細い指先へと、その美しい指輪をそっと滑り込ませた。
サイズは驚くほどにぴったりで、彼女の薬指で、緑と白の光が完璧な調和をもって輝き始めた。
アルフレートはそのまま、エレニアの華奢な身体を、壊れ物を扱うかのような手つきで、しかし決して離さないという強い意志を込めて、力強く抱きしめた。
エレニアもまた、彼の広い背中に自らの手を回し、その確かな体温と、力強い心臓の鼓動を全身で受け止めた。
頭上では、満天の星々が、二人の新たな門出を祝福するかのように、いっそう強く輝きを増していた。
捨てられた悪役令嬢と、冷徹と恐れられた王太子。
傷を抱えた二人が出会い、本当の真実の愛を見つけたその場所で、完璧な幸せに満ちた未来の物語が、今、静かに幕を開けたのだった。




