第1話:黄金の檻の目覚め
辺境の村、ルナ・フェリスの朝は、あまりに甘美な香りで始まる。
最高級の茶葉を蒸した香りと、焼きたての白パン、そして昨日狩られたばかりの魔物の肉を煮込む芳醇な香り。
この村の住人は、王都の貴族ですら羨むような食卓を、毎朝当たり前のように囲んでいる。
「エルナ、起きて。顔を洗ったら、すぐに着替えましょう。今日は村長のご子息が、新しい絹のドレスを届けてくださるんですって」
女戦士シグルは、寝台に横たわる少女、エルナの肩を優しく揺り動かした。
エルナはまだ14歳。あと数日で15歳の誕生日を迎えるその肌は、朝露を含んだ花弁のように瑞々しく、透き通っている。
「……ん、シグル……おはよう。また、あの重いドレスを着るの?」
「ええ。村のみんなが、あなたの美しさを拝みたがっているわ。あなたが笑えば、村の豊かさが保証されるんですもの」
シグルは鏡に向かうエルナの長い髪を梳かしながら、胸の奥で鋭い痛みを感じていた。
この村の『巫女』は、村を豊かにする「生きた魔石」だ。
年に一度、その魅了の力を極大まで解き放ち、魔物を要塞へと誘い込む。
村人たちは安全な防壁の上から、魅了され無防備になった魔物を狩り、その素材で莫大な富を築く。
だが、その代償は。
(……あと、たった数日)
シグルは鏡越しにエルナの無垢な瞳を見つめた。
15歳で力を引き継いだ瞬間から、エルナの時間は狂い始める。
1年で5年分。
昨日まで少女だった者が、翌年には大人の女になり、数年後には老婆となり、やがて枯れ木のように死んでいく。
そして、この村にはさらなる「計画」がある。
巫女は結婚を許されない。
ただ、魔物狩りが終わると同時に、村長一族の男の種を受け、次代の巫女を産む。
血筋の維持と、村長一族の権威を繋ぐための「種付け」は、カレンダーで決められた無機質な義務だ。
今回の相手は、よりによってバルト。
シグルが没落した家を救うために、政略結婚を強いられている男だ。
(信じられない。私を妻に迎える男が、私の目の前で、このいたいけな娘に子を孕ませるというの?)
それはシグルにとって、耐え難い侮辱だった。
愛のない出産を宿命づけられ、家畜のように扱われるエルナ。
そして、それを見過ごして「妻」の座に座らされる自分。
その未来を想像するだけで、胃の腑が焼けるような屈辱がこみ上げる。
「ねえ、シグル。お母様、また少し……小さくなった気がするの。昨日の夜、お部屋に行ったら、私のことを思い出せなかったみたいで」
エルナの言葉に、シグルの手が止まる。
現・巫女であるエルナの母は、今や90歳を超えた老婆のような姿で、要塞の奥で死を待つのみとなっている。
実際には、まだ30歳にもなっていないはずなのに。
「……大丈夫よ、エルナ。私がついてる」
シグルはエルナを抱き寄せ、耳元で、誰にも聞こえないほど小さな声で囁いた。
それは、シグルが密かに確信している「世界の真実」だった。
かつて没落する前の生家で目にした、古びた禁書の記述。
そこには『魔力は土の熱を喰らい、人の命を灯火として燃える。石の壁を超え、天の川を仰ぐ地に至れば、火は消え、時は止まる』と記されていた。
あの不気味な要塞の壁さえ超えれば、すべては止まる。
外の世界は地獄などではない。
魔力という名の「毒」がない、清浄な自由があるはずだ。
「いい、よく聞いて。誕生日の翌日、お祭りの騒ぎに乗じて、あなたをここから連れ出す。村の外、あの山を越えた先には、呪いの解ける『外の世界』があるの」
「……お外へ? でも、村長様は、お外は地獄だって……」
「嘘よ。あいつらは、あんたという『金の卵』を失いたくないだけ。外へ出れば、あんたは普通の女の子になれる。1年を、ちゃんと1年として生きて、好きな人と出会って……そんな当たり前の自由が、あそこにはあるのよ」
シグルの瞳には、狂信に近い光が宿っていた。
外に出れば、すべてがうまくいく。
この贅沢すぎる食事も、ふかふかの寝具も、媚びへつらう村人たちの視線も、すべて捨ててしまえば、エルナの時間は取り戻せる。
その確信だけが、シグルを突き動かしていた。
「さあ、行きましょう。バルト様がお待ちよ。……精一杯、嫌な奴の相手をしてあげなさい。それも、あと数日の辛抱だから」
シグルはエルナに最高級の刺繍が施された靴を履かせ、黄金の檻の扉を開けた。
外では、村人たちが「聖女」の登場を待ちわび、熱狂的な歓声を上げている。
その足元に、エルナの命が1秒ごとに削られていく砂時計が置かれていることなど、誰も気に留めぬままに。




