世界は日に日に物騒になっている
基本的に、教室に着くのは本間さんが早い。たまには僕が本間さんを待って先に挨拶をしたい。そう思って、僕は翌朝いつもより早く家を出ることにした。
世界は日に日に物騒になっている。昨夜も家の周りで暴徒たちが騒いでいるのが聞こえていた。家に入り込まれたらどうしよう、と僕は部屋で怯えていた。
朝起きてリビングで顔を合わせたとき、母の目の下にくっきり隈ができていた。僕も同じなんだろう。母は疲れた顔に笑みを浮かべた。
「学校、気をつけて行ってきなさいね」
ヘルメットを被りながら「うん」とうなずくと、母から頼まれごとをした。
「父さんを見かけたら、遅くなるなら連絡くらいちょうだいと言っておいて」
父は、暴徒が騒ぎ出した日に出勤して以来帰ってこない。どう返事をしていいかわからず、少しの間固まってしまった。
母が首を傾げる。僕はカラカラになった口で「わかったよ」とうなずいた。
「父さんに会ったら、伝えておく」
父の職場は徒歩では行けない。世界が壊れだしたように、母も壊れてきたのだろうか。だとしても、これ以上残酷な現実を突きつけたくはない。
呟きと紛うほど小さな声で「行ってきます」と告げて、徐々に壊れだした母から逃げ学校へ向かった。
外はひどい有様だった。
いろんなものが散乱していたし、いろんな人が転がっていた。息があるのかないのか、怖くて確認できないが、少なくとも何人かは息がある。うめき声が、あちこちから聞こえている。
倒れている中に幼馴染みがいないことに安堵し、僕は彼らを踏まないよう気をつけながら歩いた。
ふと、落ちている鉄パイプが目に留まった。ボコボコに凹んでいる。持ち主は相当使い込んだんだろう。持っているだけで威嚇くらいにはなるかもしれない。こびりついている血が恐ろしかったけれど、見ないふりをして拾い上げた。
手に馴染まない冷たさに嫌なものを感じる。両手で持ったまま二往復ほど振って重さを確かめる。いざというとき、振り回すくらいはできそうだ。刀のようにベルトに差して、僕は再び歩き出した。
道中、徒党を組んだ暴徒同士が争っているのを見た。避けるために迂回したり、知らない人の家に飛び込んで隠れたりしているうちに時間はどんどん過ぎてゆき、早く出た意味がなくなってしまった。
目と鼻の先まで来た校舎を見ながら、本間さんはもう教室に入ってるだろうかと先を急ぐ。
そのとき、女の子の叫び声が響き渡った。
名前も知らない誰かじゃない。この声は本間さんだ。腰に差した鉄パイプを引き抜き、聞き間違いであれと願いながら走った。
声が聞こえたのは正門の方角だったのに、正門前には誰もいない。正門を越えて走ると、曲がり角に見慣れた制服を見つけた。
汚れた格好をした男が、本間さんに掴みかかっている。
本間さんは泣きながら抵抗し、逃げようとしていた。男の背中越しに本間さんと目が合った。眼鏡の向こうの目は涙で濡れ、また新たな涙を落としている。
気づけば僕は鉄パイプを振り上げ、男の後頭部に叩きつけていた。
男が倒れた隙を突き、本間さんの手を引き校舎へ走る。今まで暴徒が学校に来なかったからって、この男も追いかけてこないとは限らない。だというのに僕は、正門をくぐって校舎に向かって一目散に駆けていた。
靴を履き替えるなんて当然せず、四階まで一気に駆け上がる。ピアノが聞こえないことにも気づかないまま廊下を走り、教室に飛び込んだ。音を立ててドアを閉める。
ドアにもたれかかっていないと腰が抜けてしまいそうだ。
息を整えながらガラス越しに廊下の様子を窺う。足音も声も近づいてこない。耳を澄ませても、聞こえるのは僕らの呼吸だけだ。
ホッと息をついてはたと気づいた。本間さんの手を取って、そのまま走って、今もまだ強く握っている。弾かれるように手を離し、僕は大きな声で「すみません!」と謝った。
「すっ、すみません! あのっ、手っ、わ、わざとじゃないんですっ!」
どう言えばわかってもらえるだろう、と慌てふためきながら他意はなかったと本間さんに伝える。本間さんはきょとんと目を丸くしたかと思うと、小さく噴きだした。
ふふ、とこぼれた笑い声は、今までこの教室で聞こえていたあの笑い声と大差ないように思えた。
「渡部君たら、何で敬語なの?」
もー、と本間さんは笑う。口元に手をやって、おかしそうに笑っていた。その笑い声は徐々に震えだし、本間さんの目尻から水滴が落ちた。
僕が「あ」と声を漏らすと同時に、本間さんも「あ」と自分の涙に気づいた。かと思うと、本間さんはずるずるとへたり込んでしまった。
笑い声は泣き声となり、止めどなく落ちる涙を拭いながら、本間さんは体を震わせ泣きだした。
どうしていいかわらかない。何を言えば慰められるかもわからない。けれど、今ここで僕が何かしなくちゃ本間さんは泣き止まない。
しっかりしろと自分を奮い立たせ、僕は本間さんの隣に膝をついた。
「だ……大丈夫だよ。もう、大丈夫だから」
我ながら陳腐な台詞だ。だけどほかに掛ける言葉が見つからない。
本間さんの背中に手を当て、何度も「大丈夫だよ」と言って擦る。しゃくり上げて泣いていた本間さんは、僕にぎゅうと抱きついた。
「ありがとう、ありがとう渡部君。本当に、ありがとぉ」
抱きついてきた本間さんを抱き返していいものか、ほんの数秒悩んだ。
悩んだ末、おそるおそる抱き返す。
まだ泣き止む気配のない本間さんの頭をあやすように撫で、背中をとんとんと優しく叩いた。本間さんは抱きつく力をますます強くし、小さな子供みたいに泣いていた。泣き止んでほしいと思う頭の片隅で、不謹慎な僕が「本間さんは泣いても可愛いなぁ」と呟いていた。
しばらくして、落ち着いた本間さんは僕に「ごめんね」と謝ると、すんと鼻を鳴らして涙を拭った。ハンカチを差し出しながら「謝ることないよ」と首を振る。本間さんは眉をへにゃりと下げ、恥ずかしそうに目を逸らした。
「助けてくれたのに、泣いて制服濡らしちゃって、ごめんね」
「こんなくらい濡れた内に入らないよ。それよりも本間さんを助けられて良かった」
いつもと同じ時間に家を出てたら、本間さんの悲鳴を聞くことすらなかった。
いつもより早く出て良かった。
鉄パイプを拾っておいて良かった。
本間さんがあんな男にひどい目に遭わされなくて、本当に良かった。
ホッとした僕が笑みを浮かべてそう言うと、本間さんはリンゴみたいに真っ赤になって、うつむきながら小さな声で「……ありがとう」とまたお礼を言ってくれた。




