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第9話 安全圏

 リョウタは窓に走りより、窓の外を見上げた。

最初に見えたのは、人だった。ビルの上で、作業服を着た男が宙に浮いている。


 冬の空を背に、男の輪郭だけが妙にくっきり見えた。

道路の音も店内の声もあるのに、リョウタの意識はそこだけへ吸い寄せられる。


 見上げる首筋が冷えた。嫌な予感は、たいてい理由より先に身体へ来た。


「……は?」


 落ちている、と思った。でも違う。

身体は止まっている。肩と太ももに回ったベルトが、男を支えていた。


 命綱は、ゴンドラのワイヤとは別に屋上へ続いている。窓清掃用のゴンドラだけが、大きく傾いていた。


「何だよ、あれ……」


 その下には、清掃中を示すコーンと細いロープ。

その外へ、人だかりが膨らんでいる。


 そして。


「アカリ」


 居た。

スマートフォンを耳に当てている。


「アカリ!」


 リョウタは店を飛び出した。扉の向こうの冷気が肺へ刺さった。

店内のコーヒーの匂いは一瞬で消え、代わりに排気と冷えたアスファルトの匂いが鼻につく。


 人だかりのざわめきは、空を見上げるほど大きくなった。


「はい。作業員の人は落ちてません。命綱で止まってます」


 アカリが上を見ながら話している。


「ゴンドラが斜めになってて……はい」

「アカリ!」


 アカリが振り返る。


「あ、リョウタ」

「何してんだよ!」

「消防に電話してる」

「見りゃ分かる!」

「じゃあ聞かなくていいじゃん」

「そういう意味じゃ――」

「リョウタ!」


 タクミの声だった。


「上!」


 リョウタが反射的に顔を上げる。

ゴンドラが揺れた。人垣から悲鳴が上がる。


「おい、真下から離れろ!」タクミが叫ぶ。


 アカリは電話を耳に当てたまま、数歩下がった。


「はい。今、離れました」

「貸せ」

「なに?」

「電話。俺が話す」

「大丈夫だよ」

「大丈夫じゃねえ!」


 リョウタがアカリの腕を掴んだ。


「戻るぞ」

「待って。今、場所聞かれてるから」

「場所なんか向こうで――」

「建物の名前、これで合ってる?」

「アカリ!」

「すぐ終わるって」


 声は普段と変わらない。そのことが、リョウタには余計に怖かった。

アカリは知らない。自分が何度も、何度も、金曜日を越えられていないことを。


「……頼むから」


 アカリの表情が変わった。


「リョウタ?」

「ここから離れよう」


 冗談じゃない。怒ってもいない。

アカリにも、それだけは分かったらしい。


「……うん」


 アカリは電話へ戻った。


「すみません。今から少し離れます。はい」


 そのとき、上から何かが落ちた。


「危ない!」


 ミオの声と、金属音。

長い清掃用のポールが歩道へ叩きつけられて跳ね、人が一斉に下がった。


「きゃっ」

「アカリ!」


 リョウタが、建物から離れる方向へ腕を引く。


 タクミも走った。


「もっと下がれ!」


 野次馬が散る。

歩道の端へ人が押し寄せ、逃げられる隙間が狭くなっていく。


「ミオ!」

「私は平気!」

「そっちじゃねえ、もっと道路側!」

「分かってるわよ!」


 ミオも本を鞄へ押し込み、後ろへ下がった。

数秒たっても、何も起きない。通話を終えたアカリも、リョウタと一緒に下がる。


 店員がロープの外から声を掛け、人の列を少しずつ歩道の端へ寄せた。

リョウタも歩道に沿って離れようとしたが、前の人が止まると、アカリと一緒に足を止めるしかなかった。


 車道へは出られない。列が動くたびに、少しずつ進む。


 数分が過ぎ、また数分が過ぎた。


 救助はまだ来ない。

ゴンドラは上にある。作業員も、命綱に支えられたまま動いている。


「……びっくりした」


 アカリが息を吐いた。


「びっくりしたじゃねえよ」


 リョウタは手を離さない。


「帰るぞ」

「うん」


 今度はアカリも頷いた。


「消防は?」タクミが聞く。

「向かってるって」

「いつ来るんだ?」

「分かんない」


 アカリがスマートフォンを見る。


「電話したの、五時一分」


 タクミも時刻を見た。五時十一分。


「十分……」


 まだサイレンは聞こえない。

道路を見ると、車の流れが悪い。遠くの交差点まで、赤いテールランプが連なっている。向かいの車線も詰まり、交差点の先で列の頭が止まっていた。


「……あっちか」タクミが呟いた。

「何が?」リョウタが聞く。

「いや」


 タクミは首を振る。

道路から目を離し、リョウタとアカリを見た。


「オレ、ここに残る」

「タクミ?」

「アカリ」

「なに?」

「消防来たらオレが代わりに話す」

「でも」

「いいから」

「タクミまで変」

「オレは元からだ」

「それはそう」

「そこ否定しろよ!」


 アカリが少し笑った。リョウタは笑わなかった。


「行くぞ」

「うん」


 二人が歩き出す。人垣を抜けて、建物から歩道の縁へ下がる。

縁石の向こうは、動かない車の列だった。二人は車道を避け、歩道に沿って進もうとした。


 タクミはその背中を見ながら、少しだけ息を吐いた。

アカリが危険な場所から離れていく。そのとき、遠くからサイレンが聞こえた。


「あ」


 アカリが振り返る。


「来たんじゃない?」

「見るな」

「でも」

「いいから行くぞ」

「何よ、その言い方」

「ミオじゃねえんだから『何よ』とか言うな」

「そこ?」


 アカリが笑った。

ようやく、いつもの声だった。タクミもサイレンの方を見る。


 車列の向こうに、赤色灯と大きな車体が見えた。


「梯子車……」


 来た。間に合った。リョウタはそう思った。


                ◇


 ミオだけが、上を見ていた。


「タクミ」

「なんだ?」

「あれ」


 声が低い。

タクミが振り返ると、ゴンドラの角度がさっきまでとは違っていた。


「……おい」


 金属が擦れる、ぎ、という嫌な音がした。


「リョウタ!」


 タクミが叫ぶ。リョウタが振り返る。


「なんだよ!」

「走れ!」

「は?」

「いいから走れ!」


 ゴンドラが落ちた。真下へ。

 ――ではなかった。


「……え」


 タクミの目が見開かれる。

片側のワイヤが、屋上の金属片ごと落ちた。作業床の片端が沈み、底の角が外壁へ叩きつけられる。


 金属が潰れて床が跳ね、横向きになった。

建物から離れる方へ、歩道の道路側へ。残ったワイヤが、斜めに張った。


「そっちじゃない!」


 タクミが走る。


「リョウタ! 道路側じゃない!」


 リョウタが上を見た。ゴンドラが、さっき安全だと思って離れた歩道の縁へ向かっている。すぐ横で、車のエンジンが鳴っていた。


「アカリ!」


 腕を掴んで、引く。


「えっ」


 遅かった。


 金属音がして、残ったワイヤまで上から緩んだ。

作業床が吊り支えを失う。作業員は落ちない。身体を支える別の綱だけは、上へ張ったままだった。


 落ちてくるのはゴンドラだけだった。


「リョウタ!」


 アカリの声。

リョウタは腕を自分の方へ引いた。今度こそ、間違えないように。


 でも、どちらが正しいのかなんて、リョウタには分からなかった。


 大きな影が、二人を覆った。


                ×


 音。衝撃。人の声。サイレン。全部が混ざった。リョウタは地面に倒れていた。


 頬に触れた舗装は氷みたいに冷たかった。

口の中に砂っぽい味がする。視界の端で誰かの靴が走り、赤い光が路面を何度も横切った。


 それでもリョウタが探したのは一人だけだった。


「……アカリ?」


 身体を起こす。腕が痛いが、動く。


「アカリ」


 返事がない。


「アカリ?」


 少し先で、ゴンドラが横倒しになっている。


「……」


 何も考えられなかった。


「アカリ」


 立とうとしても、足が動かない。


「アカリ」


 タクミが走ってくる。


「リョウタ!」

「アカリが」

「……」

「俺」


 自分の手を見た。また、この手だ。


「俺が引っ張った」

「違う」

「でも」

「違う!」


 タクミが肩を掴む。


「お前のせいじゃねえ!」

「じゃあ」


 リョウタがタクミを見る。


「なんでだよ」

「……」

「なんで毎回」


 声が震える。


「なんで俺が助けようとすると……」


 タクミは答えられなかった。

ミオも少し離れたところに立ったまま、何も言えない。


 その向こうで、梯子車がようやく現場へ入ってきて、隊員たちが降りる。

誰かが上を指差した。作業員は、まだ命綱に支えられていた。生きている。


 アカリだけが……。


                ○


「――では、続きを」


 教師の声で、タクミは目を開けた。一月十二日、火曜日の五時間目。


 タクミは机の下で、自分の膝を強く押さえた。

走っていたときのように、足へ力が入っていた。


 教壇の前で教師がチョークを持ち直し、誰かが鼻をすすった。そちらへ顔を向ける余裕が戻るまで、何度か息を吐いた。


 机には授業の教科書が開かれている。自分で開いたはずのページが、今は他人に用意されたものに見えた。


 膝から手を離し、鞄の持ち手を探った。


「……くそ」


 鞄からノートを出して開くと、まっさらだった。当然だ。

タクミは今までの失敗を思い出し、省略し圧縮した形でもう一度書いた。


 そして最後に、書き足す。


屋内×


 少し考えて、もう一つ。


カフェ×


 さらに、もう一つ。


上方×


 そこでペンが止まった。


「……違う」


 小さく呟いて、書き足した三つの上から線を一本引いた。


 上が危険なのではない。

カフェが危険なのでも、屋内が危険だったわけでもない。


 そんなことは分かっている。分かっているのに。


「嫌だ」


 斜め前で、リョウタが呟いた。

タクミが顔を上げ、アカリが振り返る。


「なに?」

「窓際」

「窓際?」

「……嫌だ」

「じゃあ廊下側座る?」

「そうじゃなくて」


 リョウタが窓を見た。

その向こうに、校舎より高い建物がある。顔を逸らした。


「高い建物も嫌だ」

「どうしたの?」

「分からない」


 リョウタは自分の胸を押さえた。


「外も嫌で」一つ。

「道路も嫌で」二つ。

「駅も嫌で」三つ。

「学校に残るのも嫌で」四つ。

「店も」五つ。


 声が止まった。リョウタは困ったように笑った。


「……じゃあ」


 アカリが聞く。


「どこ行くの?」


 リョウタは答えられなかった。

タクミも答えられない。窓際で、ミオが本から顔を上げた。


 何も知らないアカリだけが、


 本当に不思議そうな顔で、


「なんで、そんなに行けない場所があるの?」


 と聞いた。


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