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第10話 名前をつける

 行けない場所がなぜそんなにあるのか、リョウタ自身が知りたかった。


「……分からない」

「また?」

「俺だって分かんねえんだよ」


 少し強い声になった。アカリが目を瞬く。


「あ……悪い」

「ううん」

「怒ってるわけじゃない」

「分かってるよ」


 アカリはそう言ってから、窓の外を見た。

いつもと同じ、火曜日の冬晴れだった。


「でも」

「ん?」

「行けない場所ばっかり増えたら」


 アカリが振り返る。


「最後、どこに行くの?」

「…………」


 それにも、答えはなかった。


                ~


 五時間目のあとの休み時間。

教科書を閉じる音と、椅子を寄せる音が教室のあちこちで重なった。


 窓際は明るいのに、外気に近いガラスだけが白く冷えている。

アカリは前の方の友達の席まで行って、話し込んでいた。


 タクミは自分の机の真ん中へノートを置いた。


「整理するぞ」


 タクミがノートを開いた。


「また?」


 リョウタが嫌そうな顔をする。


「まただ」

「それ何回書き直してんだよ」

「聞くな」

「数えてないの?」

「数えてる」

「じゃあ何回?」

「聞くなっつってんだろ」

「なんでだよ」

「数字にすると心が折れる」

「意外と繊細だな」

「観測者にも人権はある」

「急に何の観測者だよ」

「独り言だ」


 タクミはペンを走らせる。横からミオが覗く。


「前より雑になったわね」

「何だと?」

「最初は場所と時間まで書いてたでしょ」


 タクミのペンが止まった。


「……覚えてんのか?」

「全部じゃない」

「じゃあ、なんで」

「そういう気がするだけ」

「便利だな」

「あなたに言われたくないわ」


 ミオはノートを指差した。


「今は?」


 タクミはノートを見せた。


道×時間×学校×駅×屋内×


 その下には、こう書いてある。


同行○?


「最後だけ丸?」リョウタが聞く。

「ああ」

「なんでだ?」

「おまえがアカリと一緒にいない選択だけは、毎回嫌がるから」


 リョウタは黙った。


「毎回?」

「毎回だ」

「……そうなんだ」

「覚えてねえだろ」

「ああ」


 でも、少し考えてから、

「今聞かれても嫌だな」と言った。


「でしょ」ミオが言った。


 友達と話していたアカリが、笑いながらこちらへ来る。


 三人が見る。


「なに?」

「いや」


 リョウタが目を逸らした。


「なんでもない」

「またそれ?」


 アカリが頬を膨らませる。


「今日、わたしだけ知らない話多くない?」

「そんなことない」リョウタが即答する。

「あるよ」

「ないって」

「ある」

「ない」

「ある」

「……ある」タクミが小さく言った。

「おい」

「嘘はよくない」

「お前が言うな」

「機関に誓って真実しか――」

「黙れ」

「はい」


 ミオだけが笑わなかった。


                ~


 水曜日は曇った。

木曜日は、二時間目の途中から細かな雪が降り始めた。


 窓ガラスの向こうで、白い粒は風に流されながら校庭へ消えていった。

教室の中は暖かい。誰かが眠そうにあくびをし、教師は変わらない調子で板書を続けている。


 その平凡さの中で、タクミだけが「前にも見た」と分かる景色を数えていた。


「降ってきた!」


 アカリが窓を見る。


「昨日、天気予報で言ってただろ」リョウタが返す。

「予報で知ってても、降ったら見るでしょ」

「そういうもん?」

「そういうもの」


 リョウタも窓を見る。

白い粒が、校庭へ落ちている。


 タクミは見ずに、ノートへ書いた。


木・2限 雪


 その文字を何度書いたか、もう分からない。

タクミは「雪」の最後の線を、少し長く引きすぎた。


 斜め前でアカリがリョウタへ何か言い、二人がまた窓を見る。自分も顔を上げれば、その話へ入れる。

けれど、同じ声を何度も聞いたことが返事に出そうで、ペン先を止めたまま席にいた。


 何を覚えているかを確かめるつもりで書き始めたのに、書いている間は、二人と同じ雪を見なくて済んだ。


 少しほっとした自分に気づき、タクミは短い記録の下へ余計な線を引いた。


                ○


「――では、続きを」


 また、火曜日だった。


                ~


 水曜日は曇った。

木曜日の二時間目には、雪が降った。


「降ってきた!」


 アカリが窓を見る。

同じ声、同じくらい嬉しそうな顔だった。リョウタも窓を見た。


「……綺麗だな」

「でしょ?」


 タクミはノートに書く。


木・2限 雪


 前回と同じで、その前とも同じだ。

天気は何もしていない。ただ降っているだけだった。


                ~


 金曜日、リョウタたちは窓のない店を選んだ。


 それでも、戻った。


                ○


 火曜日、タクミはノートに「屋内×」と書き直した。


                ~


 金曜日は、学校から出なかった。戻った。

校内に残る選択をした日は、下校時刻を過ぎるにつれて廊下の声が減っていった。

帰っていく生徒の靴音が聞こえるたび、リョウタは昇降口の方を見た。


 それでもアカリが鞄を手に取ると、引き留めた。帰れない。残るのも嫌だ。

蛍光灯の下に四人の足音だけが残っても、金曜日は終わらなかった。


                ○


 火曜日、ノートの「学校×」の横に、×がもう一つ増えた。


                ~


 金曜日、いつもの時間より三時間早く動いた。

 戻った。


                ○


早×


                ~


 次は一時間遅らせた。

 戻った。


                ○


遅×


                ~


 リョウタとアカリを別行動にした周もあった。

午後四時になる前に、リョウタが言った。


「嫌だ」

「どうした」

「分かんねえ」

「何が嫌なんだ?」

「全部」


 タクミが顔を上げる。


「アカリのとこ行く」

「待て」

「無理」

「まだ何も――」

「無理だ!」


 リョウタは走っていった。

 その周も、戻った。


                ○


 火曜日、タクミはしばらくノートを見ていた。

それから「別行動×」と書いて、ペンを置いた。


「……増えたわね」


 斜め後ろから覗き込んでいたミオが言った。


「何が?」

「×」

「見りゃ分かるだろ」

「そうじゃなくて」


 ミオはリョウタを見た。

リョウタはアカリに何か話しながら、今は笑っている。


「リョウタの中にも」

「……ああ」


 タクミはノートを閉じた。


「前は道だけだった」

「今は?」

「道も嫌。駅も嫌。学校も嫌。店も嫌。一人も嫌。早いのも遅いのも嫌」

「それで?」

「昨日」


 タクミが少し迷う。


「……昨日って言っていいのか分かんねえけど」

「もう気にしないわ」

「昨日は」


 声を落とした。


「アカリが教室の窓開けただけで止めた」


 ミオの眉が動く。


「どうして?」

「本人も分かってない」

「窓から落ちたことがある?」

「ない」

「少なくとも、あなたが覚えてる範囲では?」

「ああ」

「じゃあ」


 ミオが言う。


「学びすぎてる」

「……だよな」

「危険だったものだけじゃない」

「危険と一緒にあったものまで」

「嫌いになってる」


 二人とも黙った。タクミが小さく笑う。


「頭いいじゃん」

「何よ?」

「本ばっか読んでるから現実弱いと思ってた」

「殴るわよ」

「訂正します」

「遅い」


 タクミは小さく肩をすくめた。

冗談で返してもらえると、次の言葉を急がなくて済む。


 ミオの本は机の上で閉じられたままだった。

普段なら話の途中で開いてしまうのに、今日は指を表紙に置いたままだ。


 タクミもノートをめくらず、その指が動くのをしばらく見ていた。


                ○


 それでも、試した。


 リョウタの感覚だけを信じる周もあれば、

 タクミの記録だけで動く周も、

 ミオが過去のパターンを整理する周もあった。

 三人で全部を照合する周も、

 何もしない時間を増やす周も。


 火曜日へ戻るたび、タクミのノートは真新しい紙に戻った。

それでも頭の中には、前のページに書いた×だけが増えていった。


 逆に、火曜から予定を詰め込んだ周もあった。

早く動いたり遅く動いたり、人混みを避けたり、屋内へ入ったり外へ出たりした。


 タクミは毎回ノートを書き直し、ミオは毎回少しずつ早く続きを思い出した。


 窓の外では、同じ木曜日に同じ雪が降った。何度目でも、雪だけは初めて降るみたいに静かだった。


 リョウタは毎回少しずつ多くのものを嫌がった。

道、駅、学校、店、窓、時間、一人になること。嫌だと言うたび、選べる場所が削られていく。


 タクミには、地図から安全な場所を赤ペンで消しているように見えた。

アカリだけが、その消された地図を知らない。


「なに?」


 毎回、同じ顔と同じ声で、アカリはそう聞いた。

何度死んだのかを知らないまま、四人の中で一人だけ、毎回その火曜日を初めて生きていた。


                ○


「タクミ」


 火曜日、ミオが言った。


「なんだ?」

「その次」

「どれだよ」

「学校×の次」


 タクミはノートを見る。


「……屋内×」

「その次」

「時間×」

「違うわ」

「何が?」

「次にあなたが書くこと」

「は?」


 ミオはノートを指差す。


「場所でも時間でも駄目だった」

「うん」

「同行を変えても駄目だった」

「ああ」

「何もしなくても駄目だった」

「……ああ」

「だったら」


 ミオは言葉を止めた。


 タクミが待つ。


「何だよ」

「言いたくない」

「ここまで振っといて?」

「前に言ったでしょ」

「何を」

「名前をつけたくないって」


 タクミは思い出した。

図書室で最初に全部を話した日、ミオは言った。


 名前をつけると、それに見えるから、と。


「……じゃあ、言うな」


 タクミが答えた。


 ミオが顔を上げる。


「いいの?」

「ミオが嫌なら」

「そう」


 ミオは本へ視線を落とした。

ページは開かず、表紙を見ているだけだった。


 タクミは口を開いた。


「でも」

「何よ?」

「オレも」タクミが笑わずに言った。

「たぶん同じこと考えてる」

「……」

「言葉は知らねえけど」


 ミオが目を閉じた。


「ずるいわね」

「なんでだ?」

「私に言わせる気でしょ」

「専門家だろ」

「専門家じゃない」

「時間ものほぼ全部読んだんだろ」

「だから嫌なのよ」

「何が」

「知ってるから」


 ミオは顔を上げる。


「似てる話を」


 タクミは黙る。


「何を変えても」


 ミオがゆっくり言う。


「途中が変わっても」

「……」

「最後だけ」


 その続きが、分かってしまった。


「同じ場所へ戻る」


 タクミの目が細くなる。


「それ」

「言わない」

「もうほぼ言ってんじゃん」

「まだ言ってない」

「往生際悪いな」

「うるさい」


 机の端で、ミオの文庫本が少し斜めになっていた。

タクミはその表紙を見て、何を待っているのか分からなくなる。


 彼女が言わないのなら、自分も知らないままでいられる気がした。

けれど、もう続きを考えてしまっている。


 ノートへ目を落とすと、次に書くために空けた一行があった。

タクミはそこへペンを置かず、机の脇へ下ろした。


「何の話?」


 リョウタが来た。二人が黙る。


「なんだよ?」

「別に」ミオが答える。

「その顔、別にじゃないだろ」

「何よ?」

「いや、何よって言われても」


 リョウタがタクミを見る。


「お前は?」

「……」

「タクミ?」

「リョウタ」

「なんだよ」

「お前」


 タクミは一度、言葉を選んだ。


「アカリが助かると思うか?」

「は?」

「次の金曜」


 リョウタはすぐには答えなかった。


「……助ける」

「聞いてるのはそこじゃねえ」

「助けるよ」

「リョウタ」

「何回駄目でも」


 声が強くなる。


「助ける」


 ミオがリョウタを見る。


「そうじゃなくて」

「じゃあ何だよ」

「あなた自身は」

「……」

「助かると思ってる?」


 リョウタは黙った。


 長く、長く。


「……分かんねえ」小さな声だった。

「でも」胸に手を当てる。

「ここは」顔が歪む。

「もう、駄目だって言ってる」


 タクミが目を逸らし、ミオもそうした。リョウタが笑う。


「変だよな」


 誰も笑わない。


「何十回やったか俺は覚えてねえのに」

「……」

「何十回分か知らねえ俺が」


 拳を握る。


「もう無理だって知ってる」


 言い終えると、リョウタは唾を飲もうとして、うまく飲み込めなかった。

口元だけを緩めて二人の返事を待ったが、誰も続けなかった。


 握った拳を開くと、手のひらに爪の跡が残っていた。


「じゃあ」ミオが言った。誰も急かさなかった。

「一度だけ」

「何?」


 リョウタが見る。


「仮説として」


 ミオの声は、本当に嫌そうだった。その言葉を口にしたくないみたいに。


「死因が決まってるんじゃない」

「……」

「場所でも」

「……」

「時刻でもない」


 タクミが聞く「じゃあ何が決まってる?」


 ミオは答えなかった。

でも、リョウタが先に答えた。


「……アカリ?」


 ミオの目が揺れた。


「違う」

「でも」

「まだそう決めないで」

「だったら何だよ」

「だから――」


 一度、深く息を吸う。


「そういう物語なら」


 ミオは言った。


「こう呼ぶことがある」


 タクミも、リョウタも待っていた。


「……収束」


 言ってしまった。

自分でその言葉を嫌うような言い方だった。


「結果そのものが」


 ミオが続ける。


「何をしても、同じところへ集まっていく」


 沈黙が落ちた。

タクミはノートを見る。何十周分もの×が並んでいる。存在しなくなった未来だった。


 リョウタはアカリを見た。

教室の向こうで、アカリは友達と話して笑っている。


「……収束」リョウタが呟いた。

「待って」ミオが言う。

「なんだよ」


「名前をつけただけ。でも、証明じゃない」

「でも説明できる」リョウタが言う。

「リョウタ……」

「全部、違う。今まで全部!」声が大きくなる。


 アカリがこちらを見る。


「リョウタ?」


 リョウタは我に返った。


「……ごめん」

「どうしたの?」

「なんでもない」


 アカリが少し困った顔をする。


「また?」

「……うん」

「そっか」

 それだけ言って、アカリはまた友達の方へ戻った。


 ミオが小さく言う。


「だから嫌だったのよ」

「何が?」タクミが聞く。

「名前をつけるの」


 リョウタは、もう一度その言葉を口にした。


「収束」


 今度は、さっきより自然に。


                ~


 放課後、タクミはノートを開いた。

新しい行にペン先を置き、書こうとして止める。


「書かないの?」ミオが聞く。

「何を?」

「その言葉」

「あー……うん」

「どうして?」


 タクミは少し考えた。


「まだ」


 ノートを閉じる。


「気に入らねえ」

「何が?」

「全部試したわけじゃない」


 ミオが見る。


「まだ余白がある?」

「ある」


 即答だった。


「どこに?」

「知らねえ」

「それ、あるって言わないでしょ」

「ある」

「なんで?」

「オレがまだ見つけてねえから」


 ミオが呆れた顔をする。


「中二病って便利ね」

「褒め言葉として受け取る」

「褒めてないわよ」


 タクミは笑った。


 ただ、


 鞄へしまう前にもう一度ノートを開き、


 ページの隅へ、


 自分でも気づかないくらい小さな文字を書き込んだ。


収束?


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