第7話 読むだけ
「タクミ」
名前を呼ばれて、タクミはノートから顔を上げた。ミオが立っていた。
「なんだ?」
「ちょっといい?」
「珍しいな」
「何が」
「ミオから話しかけてくるの」
「そう?」
「そうだろ」
「覚えてない」
さらりと言われて、タクミの指が止まった。
「……今、なんて?」
「だから、覚えてない」
「何を」
「私が普段どれくらいあなたに話しかけてるか」
「いや、それ普通は――」
「でも」
ミオがタクミのノートを見る。
「それは、覚えてる気がする」
タクミは反射的にノートを閉じた。
「何が」
「その書き方」
「…………」
「今日初めて見たはずなのに」
「デジャヴだろ」
「たぶんね」
ミオは否定しなかった。それが逆に怖かった。
「じゃあ解決」
「してない」
「したことにしろよ」
「嫌」
「なんで」
「続きが気になるから」
タクミは黙った。
少し離れた席で、リョウタはアカリと話している。
いつもの二人だった。少なくとも、アカリだけは。
「場所変えるぞ」
「なんで?」
「あいつらに聞かれたくない」
「じゃあ、何かあるんだ」
「……」
「分かりやすいね」
「性格悪いって言われない?」
「本を読んでるときは静かだから」
「否定しろよ」
~
放課後、二人は図書室へ向かった。
入口で司書が「宮沢さん」と声を掛け、ミオは小さく会釈した。
彼女にとってはいつもの場所で、タクミにとってはほとんど縁のない場所だった。
扉が閉まると、廊下のざわめきが薄い壁の向こうへ遠ざかった。
紙と古い糊の匂い。ページをめくる音。
タクミは無意識に声を落とした。
ミオは逆に、ようやく自分の呼吸へ戻れたような顔をした。
「落ち着かねえ」
「図書室で落ち着かない人、初めて見た」
「本が多すぎる」
「図書室だから」
「全部こっち見てる気がする」
「病院行く?」
「本に監視されている可能性を否定するな」
「否定する」
ミオは窓際の席へ座った。タクミも向かいに座る。
「で」
「何だ」
「何回目なの?」
タクミは動かなかった。ミオも動かないまま、数秒が過ぎた。
「……何が」
「それが分からない」
「は?」
「今、そう聞かなきゃいけない気がした」
ミオ自身が、自分の言葉を不思議そうにしている。
「何回目って、何のこと?」
「オレに聞くなよ!」
「だから聞いてる」
「怖いんだけど!」
「私も少し怖い」
その声だけは冗談ではなかった。
ミオは机の上に指を置く。
ミオの指先が、机の木目に沿って少しだけ動いた。
タクミは、自分のノートをもう一度隠しかけてやめた。
図書室の奥で本が一冊閉じられる。
そんな小さな音まで聞こえる場所で、彼女が何を聞こうとしているのか待つのは落ち着かなかった。
広げたページの端を押さえると、紙がわずかにたわんだ。
「整理するね」
「急に始まった」
「あなたは最近、同じ形式のノートを書いてる」
「うん」
「でも、私はそれを今日より前に見た記憶がない」
「うん」
「なのに、見た気がする」
「……うん」
「リョウタは、まだ起きていないことを嫌がる」
タクミの表情が変わった。
「西日。道。駅前。商店街」
「そんなに見てたのか」
「見てたというより」
ミオは少し考えた。
「気づいたら、覚えてた」
「…………」
「それから」
「まだあんの?」
「あなたは、そのリョウタを見てる」
タクミは何も言わない。
「リョウタが何かする」
ミオが指を一本立てた。
「あなたが反応する」
指がもう一本立つ。
「その反応を見てると、リョウタの行動に意味があるって分かる」
三本目の指が立った。
「だから最近、本が進まない」
「最後それオレのせい!?」
「そう」
「理不尽!」
「昨日までなら、リョウタが変なことをしてても気にしなかったと思う」
「昨日?」
ミオが止まった。
「……また」
「何が」
「昨日って言った」
「昨日は月曜だぞ」
「知ってる」
「オレたち別に昨日そんなことしてない」
「知ってる」
ミオは額に手を当てた。
「だから気持ち悪いの」
タクミは笑えなかった。自分には記憶がある。
リョウタには、感覚だけが残っている。
では、ミオのこれは何だ。
「なあ」
「何よ?」
「時間もの、好きなんだろ」
「好き」
「こういうの読んだことある?」
「こういうのって?」
タクミは周囲を見た。
誰もこちらを見ていないのを確かめて、声を落とす。
「金曜から火曜に戻る話」
ミオの目がわずかに動いた。
驚いてはいる。でも、思っていたほどではなかった。
「ある」
「あるのかよ」
「それだけなら珍しくない」
「オレの人生、珍しくない扱いされた」
「戻るのは誰?」
質問が速かった。
「……世界」
「記憶を持ってるのは?」
「オレ」
「リョウタは?」
「持ってない」
「でも未来を知ってるように動く」
「感覚だけ残ってるっぽい」
「アカリは?」
「何も」
「毎回?」
「……たぶん」
「戻る条件は?」
タクミは答えなかった。
「タクミ?」
「その前に」
「何」
「一個確認する」
「うん」
「これ聞いたら」
喉が渇いた。
「たぶん、ミオも今までみたいにはいられない」
ミオは少しだけ目を細めた。
「大げさ」
「オレもそう思いたい」
「……」
「だから、知らないまま本読んでてもいいぞ」
ミオは机の横に置いた文庫本を見た。
数日前から読みかけている本だった。表紙に指を置いたまま、わずかに眉を寄せる。
「その言い方」
「何だ」
「読んじゃ駄目って言われてるみたいで嫌」
「逆だ」
「じゃあ聞く」
「即答かよ」
「続きが気になる」
「……そういう奴だったな」
タクミは息を吐いた。
「アカリが死ぬ」
ミオの顔から、好奇心が消えた。
ページをめくる音が、少し離れた席で一度だけ鳴った。
暖房の弱い図書室では指先が冷えているはずなのに、ミオはそれを忘れたように動かなかった。
「……何よ?」
「金曜日」
「…………」
「死ぬと、火曜日へ戻る」
「待って」
「うん」
「何回?」
タクミは答えられなかった。
「分からない」
「分からない?」
「途中から数え方を変えた」
「そんなに?」
「……うん」
「全部、同じ死に方?」
「違う」
「場所は?」
「違う」
「時刻」
「多少ずれる」
「じゃあ」
ミオが言いかけて、口を閉じた。
「何だよ」
「まだいい」
「気になるだろ」
「気になるだろうけど……」
ミオは視線を落とした。
「今、名前をつけたくない」
タクミが少し驚いた。
「なんで?」
「名前をつけると、それに見えるから」
「……」
「時間ものって、便利なの」
ミオは笑わなかった。
「一個の現象を見ただけで、『ああ、あの型ね』って思えるから」
「詳しい奴がいた方が助かるんじゃねえの?」
「そうかもしれない」
「じゃあ」
「でも、間違ってたら?」
タクミは黙った。
「現実なら」
ミオが言う。
「作者はいない」
少し間があった。
「たぶんね」
「そこ『たぶん』なんだ」
「今の状況で断言できる?」
「できねえ」
「でしょ」
ようやく少しだけ、いつものミオに戻った。
「手伝ってくれ」タクミは言った。
「嫌」
「なんで!?」
「当事者になりたくないから」
「今までの話聞いてそれ言う!?」
「言う」
「アカリ死ぬんだぞ」
「分かってる」
「じゃあ――」
「読むだけならやる」
「……は?」
「あなたたちが何をしたか教えて」
「それ手伝うって言うんじゃねえの?」
「違う」
「何が」
「私は動かない」
ミオは文庫本の表紙を撫でた。
「物語って、中に入ったら読めないでしょ」
「意味分かんねえ」
「自分が次に何をするか分からないのに、全体なんて見えない」
「いや、そりゃ」
「だから外から見る」
「……」
ミオは指を折りながら言った。
「リョウタが何を嫌がったか。あなたが何を変えたか。何が変わって、何が変わらなかったか。それを読む」
タクミはミオを見ていた。
「おまえ」
「何よ?」
「やっぱ性格悪いな」
「なんで?」
「友達が何十回も地獄見てんのに読者席に座る宣言する?」
「タクミ」
「何だよ」
「私も怖いの」
そこで初めて、タクミは口を閉じた。
「本なら」
ミオは小さく言った。
「死んでもページを閉じればいい」
「……」
「でも、アカリは」
窓の外を見る。
校庭で、アカリが友人と笑っている。
「ページじゃないから」
「……うん」
「だから」
ミオは視線を戻した。
「読むところから始める」
タクミはしばらく何も言わなかった。
「分かった」
「うん」
「ただし」
「何?」
「オレのノートは勝手に読むな」
「読ませてくれないの?」
「国家機密だから」
「まだそれやるんだ」
「これは譲れない」
◇
ミオは文庫本へ手を戻したが、開けなかった。
窓の下では、アカリが友人の肩を軽く叩いて笑っている。
明日もその笑顔を見るつもりで、今朝は彼女の席のそばを通った。
その明日を急に疑わなければならなくなった。
何か考えると言えばよかったのかもしれない。
けれど、間違った提案をして、その結果をタクミだけが覚えていたら。
そこまで想像して、ミオは唇を閉じた。
表紙を押さえていた手を緩めると、手のひらに跡が残っていた。
~
金曜日の放課後、リョウタは昇降口で立ち尽くしていた。
生徒が次々と外へ出るたび、扉から細い冷気が入り込む。靴底の音、笑い声、部活へ急ぐ掛け声。
その全部が「普通に帰る」という行為の音なのに、リョウタだけが境目を越えられずにいた。
「どうしたの?」
アカリが靴を履き替えながら聞く。
「……外」
「外?」
「嫌だ」
「寒いから?」
「違う」
リョウタは校舎の外を見た。
道路も車も人も西日も、全部が嫌だった。
「今日、どこにも行きたくない」
アカリが首を傾げた。
「じゃあ学校にいる?」
「それも嫌」
「難しいね」
「ごめん」
「なんで謝るの?」
「分かんない」
少し離れたところで、タクミがノートを見る。
さらにその向こうでは、ミオが本を開いている。
ページには目を落とさず、リョウタとアカリとタクミの三人を見ていた。
「外が嫌」タクミが呟く。
リョウタが振り返る。
「なんか」
リョウタは自分でも探るように言った。
「道路にいたくない」
「じゃあ、建物」タクミが言う。
「学校以外」
「……」
「駅ビルとか」
リョウタが首を振る。
「駅も嫌」
「もっと離れた場所」
「車は?」
「使わない」
「歩く?」
「道路は通る」
「地下」
「ない」
「ワープ」
「真面目に考えろ!」
「考えてる!」
アカリが笑った。
「じゃあさ」
三人が見る。
「近くのカフェでいいじゃん」
「……カフェ?」
「道路にいなくていいし」
アカリがリョウタを見る。
「学校でもない」
「…………」
「嫌?」
リョウタは目を閉じて、自分の中にある理由のない拒否を探した。
西日、駅前、商店街、早く帰ること、遅く帰ること、学校、道路。
カフェは、それらとは違った。何も引っかからない。
「……そこなら」リョウタが目を開ける。
「大丈夫な気がする」
「決まり」
アカリが笑った。
タクミはノートへ「屋内」と書いた。×は、まだつけない。
「ねえ」
ミオの声がした。
「なんだ?」
タクミが振り返る。
「今まで、屋内は?」
「ほとんど試してない」
「そう」
◇
ミオは三人を見た。
リョウタは少し安心した顔をしていて、アカリは何も知らず、タクミは答えを探している。
ミオはその続きを、知りたいと思ってしまった。
「……最悪」
「何が?」
アカリが聞く。
「なんでもない」
「最近それ流行ってるの?」
「たぶんね」
「変なの」
知りたい、と思ったこと自体が少し怖かった。
続きを読めば、次に何が起きるか分かるかもしれない。
けれど、分かった瞬間から目の前の三人を「登場人物」みたいに扱ってしまいそうで、
それはもっと嫌だった。
四人は校舎を出た。
ミオは本を鞄へしまった。
今日はもう、
読めそうになかった。




