第6話 忘れていること
「――では、続きを」
何回目だったか、タクミはもう数えていなかった。数えなくても、今がいつかは分かる。
一月十二日、火曜日の五時間目。教師の声と、乾いた暖房。
斜め前にアカリがいる。その手前で、リョウタが目を開けた瞬間に顔をしかめた。
「……嫌だ」
アカリが振り返る。
「何が?」
「分かんない」
いつものやり取りだった。ただ、今日は続きがあった。
「全部」
「全部?」
「なんか……」リョウタは教室を見回した。
「帰るのが嫌だ」
タクミのペンが止まった。
~
五時間目のあとの休み時間。
人の位置だけが、少しずつ入れ替わっていく。タクミはその流れに逆らって、リョウタの机の前で止まった。
机の角へ置いた指を、タクミは一度引っ込めた。
リョウタがこちらを見るまで待とうとすると、その数秒が妙に長い。
いつもの調子で名前を呼んでしまえばよかった。
ふざけた返事が来ることまで分かっているのに、口を開く前に乾いた唇を舐めなければならなかった。
「話がある」タクミが言った。
「告白なら断る」
「毎回それ言うな」
「毎回?」リョウタが聞き返した。
タクミは黙った。
「……なんだよ」
「いや」
「今の何」
「なんでもない」
「お前それ多すぎるだろ」
リョウタが眉を寄せた。
タクミは教室を見る。
アカリは友人と話している。
ミオは窓際で本を読んでいる。
「来い」
「階段?」
「屋上前」
「なんで?」
「重要機密だからだ」
「お前の重要機密、だいたい大したことないじゃん」
「今回は」
タクミは笑わなかった。
「大したことある」
~
屋上へ続く扉は施錠されていた。
二人はその手前の踊り場に座った。窓から冬の光が入っている。
踊り場は教室より数度低く感じられた。
コンクリートの壁から冷たさが返り、階下からは誰かが階段を駆け上がる音が時々響く。
そのたびに二人は話を切り、足音が遠ざかるのを待った。
「で?」リョウタが言う。
「何」
「重要機密」
「ああ」
タクミは鞄からノートを出して開いた。
場所、時間、短い言葉。それから、×。×。×。
「何これ」
「さっき書いた」
「自由研究?」
「違う」
「字汚いな」
「そこじゃねえよ」タクミは息を吐いた。
「リョウタ」
「ん?」
「今から言うこと」
タクミは一度、言葉を止めた。
「たぶん、おまえは信じる」
「すげえ自信」
「オレにはない」
「どっちだよ」
「でも」
タクミはリョウタを見る。
「おまえの方が、オレより知ってるから」
「……何を?」
「忘れてることを」
リョウタの表情が変わった。冗談を返さなかった。
「それ」
「ん?」
「前にも聞いた気がする」
タクミの喉が動いた。
「俺に?」
「分かんない」
リョウタは胸に手を当てた。
「でも、その言い方」
「……」
「嫌いだ」
「だろうな」
「なんで?」
「今から話す」
タクミはノートを指で押さえた。
「金曜日」
リョウタの肩がわずかに強張る。
「夕方」
呼吸が浅くなる。
「アカリが――」
「待て」
リョウタが遮った。
「何」
「待って」
顔色が落ちていた。
「……言うな」
「リョウタ」
「言うな」
タクミは黙った。
踊り場の窓から差す冬の光が、リョウタの膝の上まで伸びている。
階下では誰かが笑い、椅子を引く音もした。
学校はいつも通りなのに、リョウタの両手だけが小さく震えていた。
まだ何も聞いていない。なのに身体だけが、続きを拒んでいた。
「俺」リョウタが自分の手を見る。
「知ってる」
声も震えていた。
「何を?」
「分かんない」
「……」
「でも、知ってる」
タクミは目を逸らさず言った。
「アカリが死ぬ」
リョウタが目を閉じた。
息を吸ったまま、なかなか吐かない。壁へ背中をつけ、そのまま動かなかった。
「……いつ」
「金曜」
「何時」
「毎回同じじゃない」
「場所」
「それも」
「死因」
「違う」
リョウタが目を開けた。
「何回?」
タクミは答えなかった。
「何回死んだ?」
「……」
「タクミ」
「分からなくなった」
リョウタが笑った。乾いた笑いだった。
「そういうのいいから」
「本当だ」
「何回」
「十回は越えてる」
笑顔が消えた。
「……俺は?」
「何が」
「そのとき、俺は」
タクミは答えづらかった。
「だいたい、いる」
「だいたい?」
「最初は見てない」
「どういうこと」
「一回目。オレは学校に残ってた。何があったか知らない」
「じゃあなんで死んだって」
「次の火曜日」
タクミはリョウタを見る。
「おまえが西日を怖がった」
リョウタの指が止まる。
「いつもの道も」
「……」
「理由を聞いても、おまえは何も覚えてなかった」
「……」
「違う道へ行った」
「駅」
「そう」
リョウタは答えてから固まった。タクミも固まっていた。
「なんで」タクミが聞く。
「なんで駅って分かった?」
「……知らない」
「オレ、今言ってないぞ」
「知らねえよ!」
リョウタが立ち上がった。自分でも怖くなったらしい。
「なんなんだよこれ!」
声が階段へ響く。
「俺、何も覚えてないんだぞ!」
「分かってる」
「じゃあなんで!」
「オレにも分かんねえ!」
二人とも黙った。
階段の下を、誰かの足音が通り過ぎていった。日常だけが、先に次の時間へ進んでいく。
リョウタは壁に拳を当てた。
殴らなかった。ただ、指の関節が白くなるまで押しつけた。
「駅で」タクミが言う。
「自転車が倒れた」
「……」
「アカリが助けようとした」
リョウタの顔が歪む。
「おまえが止めた」
「……」
「その後、バイクが転んだ」
「やめろ」
「おまえはアカリを避けさせた」
「やめろ」
「それが」
「やめろって!」
リョウタがタクミの胸ぐらを掴み、すぐに手を離した。
「……ごめん」
「いい」
「俺」リョウタはうつむいた。
「それ、見た気がする」
「覚えてる?」
「違う」
首を振る。
「見えてない」
「……」
「ただ」
手のひらを見る。
「引っ張った感覚だけある」
タクミは息を呑む。
「重さとか」
リョウタは自分の手を握った。
「制服の布の感じとか」
「……」
「あと」
声が小さくなる。
「間に合わなかった感じ」
タクミは何も言えなかった。
光の中で、リョウタの握った手だけがわずかに震えている。
何か言いかけて、結局、口を閉じた。
~
「つまり」
数分後。二人はまだ踊り場にいた。
「金曜になると、アカリが死ぬ」
「今のところは」
「死ぬと火曜に戻る」
「たぶん」
「お前は覚えてる」
「ああ」
「俺は覚えてない」
「そう見える」
「でも、なんか残ってる」
「たぶん」
リョウタが睨む。
「さっきからたぶんばっかだな」
「分かんねえことを分かったふりするよりマシだろ」
「中二病のくせに」
「中二病だからこそ設定の矛盾には厳しい」
「そこだけ妙に説得力あるの腹立つ」
少しだけ、リョウタがいつもの顔に戻った。
「で」
「ん?」
「なんで今まで言わなかった」
来ると思っていた。
タクミは膝の上のノートを見る。
「言ったら」
「うん」
「おまえに、毎回アカリが死んだことを背負わせることになる」
「……」
「オレが覚えてればいいと思った」
「それで?」
「ダメだった」
タクミは笑う。
「オレ一人じゃ、どうにもなんねえ」
「それを十回以上やってから気づいたのか?」
「……」
「バカ?」
「オレの専門だって言っただろ」
リョウタは鼻で笑った。それから言った。
「次は?」
「何が」
「今週」
タクミが顔を上げる。リョウタの目が変わっていた。
「どこを避ける」
「……お前」
「死ぬんだろ」
「今までは」
「だったら」
リョウタが立つ。
「助ける」
タクミは何も言わない。
「何回死んだとか知らない」
「……」
「前に俺が何したかも知らない」
「うん」
「でも」
リョウタは自分の胸を押さえる。
「俺のここが、もう知ってる」
タクミは笑った。
「何笑ってんだよ」
「いや」
「なんだよ」
「やっぱおまえ、ピクミ――」
「何?」
「なんでもない」
「今絶対変なこと言おうとしただろ」
「機関のコードネームだ」
「殺すぞ」
「その元気があれば大丈夫だ」
予鈴が鳴り終わる。
二人は教室へ戻ろうとした。階段を一段下りたところで、リョウタが止まった。
「アカリには?」
「……」
「言う?」
タクミは答えなかった。リョウタも黙っている。
「まだ、やめとこう」
しばらくしてから、リョウタが言った。
「なんで?」
「分かんない」
またそれだった。
でも、今度の「分かんない」は、逃げているようには聞こえなかった。
~
教室へ戻ると、アカリが腕を組んで待っていた。
「遅い」
「ごめん」
「何してたの?」
リョウタとタクミが顔を見合わせる。
「世界を救う会議」タクミが言った。
「また?」
「今回は本当だ」
「はいはい」
アカリは笑う。リョウタは笑えなかった。
「リョウタ?」
「ん?」
「どうしたの?」
「……」
死ぬ、という言葉が浮かぶ。
でも、目の前のアカリはそんなことを何も知らない。
「なんでもない」
「なんでもない顔じゃないよ」
「そう?」
「うん」アカリは少し不満そうにして、
「まあいいけど」と前を向いた。
リョウタはその背中を見る。
今まで何度、この背中を見たんだろう。
自分は覚えていない。それでも、今度こそと思った。
◇
窓際で、ミオは本を読んでいた。
リョウタとタクミが教室へ戻ってくる。何か話していたが、聞こえなかった。
別に、聞く必要はない。
そう思ってページをめくる。一行、二行と読んで、止まった。
顔を上げると、リョウタがアカリの背中を見ている。その肩の張り方が、昨日までとは違った。
いや、昨日?
ミオは眉を寄せた。どうして「昨日まで」と思ったんだろう。
リョウタがあんなふうに肩を張るのを、いつから見ていた?
「……」
本へ戻っても、読めない。
気になる。
タクミが何を書いているのか、二人が何を話したのか、なぜリョウタがあんなふうにアカリを見るのか。
栞を挟めば、ここで読むのをやめられる。
ミオは薄い紙の端を持ったまま、顔を上げた。
斜め前の席でタクミは何かをしまい、その先でリョウタはまだ斜め前を見ている。
二人は声を落としていて、何も聞こえない。聞こえないことが、今日はひどく気に障った。
文庫本へ視線を戻しても、栞は指に挟んだままだった。
ミオは本を閉じて、表紙を見つめた。時間を扱った小説で、楽しみにしていた新刊だった。
ページの先には、まだ知らない結末がある。
なのに今は、もっと知りたい続きを、もう一つ持っていた。
ミオは小さく息を吐く。
「……最悪」
そして初めて、自分からタクミの席へ向かった。




