第4話 減っていく道
本屋を出たとき、五時を七分回っていた。
駅ビルの明るさから外へ出ると、夕方は思った以上に進んでいた。
冷えた風が建物の間を抜け、道路脇には、昼間は目立たなかった車のライトが点り始めている。
アカリが両手を上げる。
「結局、何もなかったね」
「何が?」リョウタが聞き返す。
「さっきの」
「ああ……」
店の外で鳴った大きな音は、倒れた自転車が店頭の金属製ラックにぶつかっただけだった。怪我人もいない。リョウタがあれほど慌ててアカリを止める必要なんて、どこにもなかった。
「ごめん」
「もういいって」アカリは笑った。
「でもさ」
「ん?」
「わたし、そんなに危なっかしい?」
「……え?」
「最近ちょっと変だよ、リョウタ」
最近、という言葉に引っかかった。今日の自分が変なのは分かる。火曜日から少し変だったことも分かっている。
それでも最近と言われると、今週よりずっと長いことのように聞こえた。
「そう?」
「そう。なんかずっと、わたしが道路に飛び出す五歳児みたいな扱い」
「そこまでじゃねえよ」
「手も痛かったし」
「ほんとごめん」
「怒ってないって」
アカリは赤くなった手首を隠すように袖を伸ばした。
「ただ、理由くらい教えてよ」
「理由……」
答えようとしても、何もない。
西日、夕方、ブレーキ音、十六時五十三分。意味の分からない断片しか浮かばなかった。
「分かんない」
結局、それしか言えなかった。
「分かんないのに止めたの?」
「……うん」
「変なの」
「自分でもそう思う」
アカリはしばらくリョウタを見ていた。それから、
「まあ、いっか」と前を向いた。
「いいの?」
「リョウタが困ってるのは嘘じゃなさそうだから」
それ以上は追及しなかった。リョウタは少しだけ救われた。同時に、なぜか余計に苦しくなった。
「五時七分」後ろからタクミが呟いた。
「どうした?」
「いや」
「またそれか?」
「癖になった」
「最悪な癖だな」
タクミはスマートフォンをしまった。
十六時五十三分は、とっくに過ぎている。何も起きなかった。少なくとも、今のところは。
「なあ、リョウタ」
「ん?」
「ちょっと安心してるか?」
リョウタは答えなかった。その代わり、前を歩くアカリを見た。
「……たぶん」
理由は分からない。でも、何かを避けられた気がする。
胸に張りついていたものが、少しだけ薄くなっていた。タクミもアカリを見た。
「そっか」
その声も、少しだけ軽かった。
~
駅前の大通りは混んでいた。車が列を作って、ほとんど動いていない。
排気の匂いが冷たい空気に滞っていた。
リョウタは車列の先を見るたび、理由もなく肩へ力が入る。
「渋滞?」
アカリが背伸びする。遠くで赤色灯が見えた。
「事故っぽいな」リョウタが言う。
交差点の向こうの詳しい様子までは見えない。ただ、何台かの車が止まり、人が集まっている。
「こっち来て正解だったかもね」アカリが言った。
「いつもの道、あっち方面でしょ?」
「……ああ」
リョウタも思った。正解だった。
理由なんて分からないけれど、今日はいつもの道を通らなくてよかった。
三人は渋滞した車列の横を歩く。そのとき、前方から自転車が来た。
高校生くらいの男子だった。止まっている車の隙間を、ゆっくり進んでいる。視線だけが、遠くの事故現場へ向いていた。
「あ」
ハンドルの端が、車のサイドミラーに当たった。軽い音がして、自転車が傾く。
「うわっ」
男子が歩道側へ倒れた。
アカリが動いた。
「大丈夫!?」
同時に、リョウタも動いた。
腕を伸ばしてアカリの肩を掴み、強く後ろへ引く。
「えっ」
倒れた自転車の前輪が、さっきまでアカリの足があった場所へ滑ってくる。
アカリが目を見開いた。
リョウタは自分の手を見ていた。間に合った。考えるより先に、身体が動いていた。
「リョウタ……」
アカリが何かを言いかける。
タクミの声が飛んだ。
「危ない!」
エンジン音がした。
渋滞した車列の脇を、一台のバイクが来ていた。速くはない。だが、倒れた自転車と男子が進路を塞いでいる。ライダーが急ブレーキをかけ、タイヤが滑った。
バイクが傾き、ライダーの身体が投げ出される。
「アカリ!」
リョウタには、ライダーの身体だけがこちらへ滑ってくるように見えた。
アスファルトを削る音が、薄い金属板を引き裂くみたいに耳へ刺さる。
考えるより先にアカリの肩を引いた。
ライダーから遠ざけるため、さらに一歩、歩道の奥へ下がる。アカリを自分の後ろへ寄せた。
制服越しの体温が手のひらに触れた。
これなら大丈夫だ。今度こそ。そう思った。
背後で、タクミが息を呑んだ。リョウタには、その理由がまだ分からなかった。
自分が見ていたのは、滑ってくる人間だけだった。
「違う!」
倒れたバイクは、ライダーの反対側を滑っていた。車体が縁石へ当たって一度跳ね、歩道の奥へ向きを変えた。リョウタが下がった方へ。
「リョウタ、そっちじゃ――」
音がした。重いもの同士がぶつかる、鈍い音。
リョウタの手から、アカリの肩が消えた。
「…………え?」
世界から音がなくなった――そう感じただけだった。
実際には、誰かの悲鳴も、倒れたバイクのエンジン音も、クラクションも鳴っている。
なのに全部が遠い。水の中へ頭だけ沈められたみたいに輪郭を失っていた。
数メートル先で、アカリが倒れている。
その光景だけが、異様なほど鮮明だった。
「……アカリ?」
自分が動かした。そこへ、自分が。
「アカリ」
返事がない。
「アカリ!」
タクミも走ってきた。
リョウタの横で一度足を止め、倒れたアカリと、リョウタの開いたままの手を交互に見た。何かに気づいた顔をした。
リョウタには、その顔の意味が分からない。分かるのは、自分がアカリを動かしたことだけだった。助けるために。正しいと思って。
「……まさか」
タクミの視線が、もう一度リョウタの手へ落ちた。
「前も……?」
答えられる記憶はなかった。
あるのは、肩を引いたときの制服の感触と、その先でアカリが倒れているという事実だけだった。
手のひらが、遅れて冷たくなった。
×○
「――では、続きを」
教師の声で、タクミは顔を上げた。
一月十二日、火曜日の五時間目。
「…………」
息を吐く。戻ったのだ。また。
斜め前にアカリがいる。生きている。その手前で、リョウタが顔をしかめていた。
まだ誰も何も言っていない。なのにリョウタは窓の外を見て、
「……嫌だな」と呟いた。
アカリが振り返る。
「何が?」
「分かんない」リョウタは眉を寄せた。
「でも……」
少し考える。
「いつもの道も嫌だし」
タクミの指が止まった。
「駅前も嫌だ」
「駅前?」アカリが聞く。
「うん」
「今日、駅行く予定あったっけ?」
「ない」
「じゃあいいじゃん」
「そうなんだけど……」
リョウタ自身、何を言っているのか分かっていない顔だった。
タクミは黙って見ていた。前の周、リョウタはいつもの道を嫌がって駅へ向かった。
今度は、駅も嫌がっている。
「リョウタ」
「なんだよ」
「おまえ、覚えてる?」
「何を?」
即答だった。タクミはしばらくリョウタを見る。
「……なんでもねえ」
「それ俺の台詞じゃない?」
「うるせえ」
タクミは前を向き、まっさらなページを開いた。
昨日まで書いていたものは、一文字も残っていない。
当然だった。ノートだって一緒に火曜日へ戻っている。ペンを走らせる。
前回 詳細不明。金曜、アカリ死亡?
今回 駅前。17時過ぎ。アカリ死亡。
少し迷って、さらに書き足す。
リョウタ:西日/いつもの道/駅前を嫌がる。
最後に、丸で囲んだ。記録ではない。記録は毎回消える。
これは、自分の頭の中に残ったものを忘れないための書き起こしだった。
ペン先が紙に引っかかった。
タクミは力を緩め、息を止めていたことに気づく。
前の方の席では、アカリが落としたものを拾おうと椅子を引いていた。
床を擦るその音が大きいだけで、一瞬、書く手が動かなくなる。
顔を上げれば無事だと分かる。
それでも、さっき見た倒れ方が、文字を書くために伏せた目の裏へ戻ってきた。
「何それ?」
落とし物を拾ったアカリが、振り返ってノートを指差した。
「見るな!」
「ケチ」
「国家機密だ」
「また?」
「また?」タクミが反応した。
「え?」アカリが首を傾げる。
「いつも国家機密って言ってるじゃん」
「ああ……そういう意味か」
「他に何があるの?」
「ない」
タクミはノートを閉じて考えた。
リョウタは覚えていない。少なくとも、本人は。
だけど、何かが残っている。
いつもの道と、駅前。
一度失敗するたびに、リョウタの中から選べる場所が一つずつ消えていく。
「……ピンチじゃねえか」
小さく呟く。
「何が?」
またアカリだった。
「独り言」
「今日みんな変」
「アカリだけだ、普通なの」
「それ褒めてる?」
「たぶん」
◇
窓際で、ミオは本を読んでいた。同じページを、もう一分以上見ている。
タクミのノートは見えなかったし、何を書いたのかも分からない。
ただ、リョウタの言葉が一つだけ引っかかった。
『駅前も嫌だ』
――も。
それは、すでに別の何かを嫌っている人間の言葉だった。
何も起きていない火曜日に、何の予定もない駅前を、どうして嫌えるんだろう。
ミオはページをめくり、すぐに戻した。
今のページを、まだ読み終えていなかった。
昨日までなら、こんな会話は読み飛ばしていた。
今は、本の文字より、「も」が隠している言葉の方を探していた。




