第2話 覚えていない答え
首を傾げたままのアカリに、リョウタは何も返せなかった。自分が言ったのだ。間違いなく、自分の口から出た言葉だった。
――また始まった。
でも、何が。
「リョウタ?」
「……いや」
「さっきからそればっかり」
「俺も分かんねえんだよ」
「自分で言ったのに?」
「だから困ってんだろ」
アカリはしばらくリョウタの顔を見ていたが、やがて諦めたらしい。
「変なの」
「知ってる」
「自覚あるんだ」
「今日だけな」
笑おうとしたが、うまく笑えなかった。胸の奥に、何かが残っている。悲しくて、怖い。でも、何が悲しくて何が怖いのかが分からない。夢でも見ていたのだろうか。
それにしては、生々しすぎた。頬を伝ったものを、リョウタは慌てて手の甲で拭った。
「え、リョウタ泣いてる?」
「泣いてねえ」
「泣いてるじゃん」
「目にゴミ入った」
「教室で?」
「暖房の風に乗って」
「ゴミ?」
「ゴミ」
「両目に?」
「…………」
「器用だね」
「うるせえ」
アカリが笑った。その顔を見た瞬間、また胸が痛んだ。
理由もなく、ものすごく大事なものを失くしたあとのように。
後ろから声がした。
「リョウタ」
タクミだった。今度はシャープペンシルでつついてこない。妙に真面目な顔をしている。
「あとで話がある」
「告白?」
「違う」
「じゃあいい」
「よくねえよ」
教師がこちらを見る。
「そこ。さっきから楽しそうだな」
「リョウタが全部悪いです」
「裏切るの早っ」
「では、両津。今のところ、説明してみろ」
「え」
黒板を見ても、何も頭に入らない。
「……世界は一度、終わっている?」
教室に笑いが起きた。
「タクミのノートじゃないの」
アカリが机に突っ伏した。教師まで笑いを堪えている。
「そこまで仲良くしなくていい。教科書を読め」
「はい……」
机を叩いて笑う音が、後ろの列から遅れて届いた。リョウタは教科書を立て、顔の下半分を隠した。
いつもならタクミへ文句の一つも返すところだった。今は、目を拭った手を誰かに見られていなかったか、そればかり気になる。
紙面へ視線を落としても、活字は読めるだけで内容にはならなかった。
後ろでタクミが小さく呟いた。
「七日後だけどな」
「まだ言ってんのかよ」
「リョウタ」
声の調子が違った。
リョウタが振り返ると、タクミは笑っていなかった。
「七日後じゃない」
「は?」
タクミは一度、言葉を選んだ。
「この火曜日が……オレにとっては、二回目だ」
意味が分からなかった。
だからリョウタは「はいはい、機関の策略な」と、いつものように返した。
タクミは何も言わなかった。
~
五時間目が終わると同時に、タクミはリョウタの腕を掴んだ。
椅子を引く音と次の授業へ移動する足音が一斉に重なる。その騒がしさの中で、タクミの指だけが妙に強くリョウタの制服を掴んでいた。
「来い」
「嫌だ」
「来い」
「なんで男子に腕引っ張られて廊下歩かなきゃいけねえんだよ」
「いいから!」
「俺にも選ぶ権利あるだろ!」
背中へ、アカリの声が飛ぶ。
「リョウター、幸せになってねー」
「ならねえよ!」
「お幸せに」
ミオまで言った。
「お前まで乗るな!」
そのまま廊下へ引きずり出された。
連れていかれたのは、階段の踊り場だった。教室の戸が閉まっても、向こうで誰かが笑っている。暖房の届かない場所で、掴まれた腕だけが熱かった。
階下から上がってきた生徒が二人の脇を通る。リョウタは腕を引き抜き、通り道を空けた。何を話す場所なのか分からないまま、手すりの内側へ寄った。
「で?」
「火曜日だ」
「知ってる」
「一月十二日」
「知ってる」
「五時間目」
「知ってるって」
「オレはさっきまで、金曜日にいた」
リョウタは黙った。
そしてタクミの額へ手を当てた。
「熱は」
「ねえよ!」
「保健室行く?」
「俺は正常だ!」
「その台詞を言う奴はだいたい正常じゃない」
「そういう話じゃねえ!」
タクミが髪を掻きむしる。
「金曜の放課後、オレ、先生に呼び出されてたんだよ」
「ああ」
「反省文書かされてた」
「何やらかしたんだよ」
「黒板に魔法陣描いた」
「正常じゃん」
「今そこどうでもいい!」
どうでもよくはないと思った。
「書き終わったのが、五時前だった」タクミが続ける。
「時計見た。覚えてる。十六時五十三分」
リョウタの呼吸が止まった。
数字に意味なんてない。なのに、十六時五十三分と聞いただけで、心臓が跳ねた。
「……どうした?」
「いや」
「今、なんかあっただろ」
「何も」
「顔変わったぞ」
「気のせいだ」
「十六時五十三分」
「やめろ」
反射的に、声が強くなった。二人とも黙る。リョウタ自身が一番驚いていた。
「……なんで?」タクミが聞く。
「分かんねえよ」
「金曜、何があった?」
「だから今日は火曜だろ」
「前の金曜だ」
「前?」
「先週のじゃない。これから来る金曜」
「日本語として破綻してるぞ」
「分かってる!」
タクミが壁を叩きそうになって、やめた。
「オレだって意味分かんねえよ。金曜にいた。次の瞬間ここだ。授業も先生の話も、ほとんど同じ。お前もアカリも同じ席にいる」
「夢だろ」
「じゃあ、おまえの『また始まった』は?」
「…………」
「おまえも何か知ってるんじゃないのか?」
「知らない」
「本当に?」
「本当に」
リョウタは答えた。嘘ではない。
何も覚えていないし、火曜日の次はまだ水曜日で、金曜日は来ていない。
それなのに、十六時五十三分という数字だけが、喉の奥に刺さっている。
「……でも」口に出してから迷った。
「でも?」
「嫌な感じはする」
「何が?」
「分かんねえ」
「場所?」
「分かんない」
「人?」
「分かんねえって」
「じゃあ何が……」
「夕方」
タクミが止まった。
「……夕方?」
「たぶん」
リョウタは窓を見た。まだ午後二時にもなっていない。太陽は高い。
それなのに、頭の中に一瞬だけ橙色の光が差した。眩しい。耳の奥で、甲高い音がした気がする。
リョウタは顔をしかめた。
「西日」
「西日が?」
「嫌だ」
「なんで?」
「だから知らねえよ!」
「……知らないのに?」
「ああ」
タクミが黙る。
ふざけたことばかり言う男が、本気で考え込んでいる。それだけで妙な感じがした。
「おまえ」
「なんだよ」
「覚えてないのか」
「何を?」
「……いや」
タクミが首を振った。
そして急にいつもの顔に戻り、右目を手で覆う。
「なるほど」
「何が?」
「貴様の記憶領域に施された因果遮断処理が――」
「帰るわ」
「待て待て待て!」
「安心した。いつものタクミだ」
「オレも今、怖くなったからいつものオレに戻したんだよ!」
珍しく正直だった。
リョウタは少し笑った。
~
教室へ戻ると、ミオが本を読んでいた。さっきと同じ姿勢で、同じ文庫本を開いている。
リョウタが席に座ると、アカリが振り返った。
「どうだった?」
「何が?」
「告白」
「違うっつってんだろ」
「振った?」
「話を聞け」
「タクミ泣いてない?」
「泣かねえよ!」
少し離れたところからタクミが怒鳴る。
アカリが笑い、リョウタも笑った。
そのとき、紙をめくる音がした。
ミオが一枚、ページをめくったのだ。そのまま本を読んでいる。何も変わらない。
けれどタクミは、なぜかミオを見ていた。
「……何?」本から目を上げず、ミオが言う。
「いや」
「さっきから見てるけど」
「見てねえ」
「見てる」
「自意識過剰だろ」
「そう」
ミオはそれ以上追及せず、ページをめくった。
タクミも前を向く。
リョウタには、その短いやり取りの意味が分からなかった。
~
水曜日、リョウタは西向きの窓を見るたびに落ち着かなかった。
木曜日には、帰り道で車のブレーキ音に振り返った。普通に停車しただけだった。
「どうしたの?」
アカリに聞かれた。
「……なんでもない」
金曜日の午後四時四十八分。昇降口で靴を履き替えた瞬間、リョウタの足が止まった。
開いた扉から冷気が床を這って入ってくる。外の西日はもう低く、下駄箱の金属の縁に細い光を置いていた。リョウタは、その色を見ただけで喉の奥が狭くなるのを感じた。
「リョウタ?」
アカリが先に外へ出る。
冷たい風。冬の空。西の低い太陽。胸が苦しくなった。
「アカリ」
「ん?」
「今日さ」言葉が勝手に出てくる。
「違う道から帰らない?」
「いいけど」アカリはあっさり答えた。
「どこ?」
「……分かんない」
「リョウタが言ったんじゃん」
「駅の方」
「遠回りじゃない?」
「いいだろ、たまには」
「まあいいけど」
アカリが、いつもの帰り道とは反対へ歩き出す。
リョウタもついていった。理由は分からない。でも、こっちだ。今日はこっちへ行った方がいい。そんな確信だけがあった。
校門の脇で、壁にもたれていたタクミと目が合った。リョウタは驚いた。
「何してんの?」
「待ってた」
「俺を?」
「いや」
タクミの視線がアカリへ向く。
「……二人を」
「何それ怖っ」
アカリが笑った。タクミは笑わない。
「そっち行くのか?」
「ああ」
「なんで?」
「なんとなく」
タクミの目が細くなる。
「そうか」
「なんだよ」
「いや」
タクミが壁から離れた。
「オレも行く」
「なんで?」
「なんとなく」
「絶対嘘じゃん」
三人で歩き出す。
◇
校舎の二階の窓際で、ミオが本を閉じた。
いつもなら図書室へ向かう時間だった。けれどその日は動かず、三人がいつもと違う方向へ消えていくのを、窓から見ていた。
しばらく、
かなり長く見てから、
小さく呟いた。
「……へえ」
もう一度、本を開く。
けれど同じ行を三回読んでも、
頭に入らなかった。
続きが、
気になっていた。




