第1話 火曜日、午後一時
プロローグ 十二時十四分七秒
十二時十四分六秒。
数字が一つ進むのを、男は息を止めて見ていた。
壁一面の監視画面には、河川名と貯水率と流量が並んでいる。
どれも緑。
異常なし。
警報なし。
普段なら、わざわざ秒まで見るような画面ではなかった。
十二時十四分七秒。
秒表示が切り替わった瞬間、誰かが椅子をきしませた。
窓のない管理室には朝も夜もない。蛍光灯の白さと、機器の排熱が混じった乾いた空気がある。
男は、まだ目を逸らさなかった。
十二時十四分八秒。表示は、その先へ進んだ。
一秒。二秒。三秒。
男の右手はマウスに乗ったまま動かない。隣の席では、紙コップのコーヒーから細い湯気が上がっていた。空調の音がやけに大きく聞こえる。
「……通った」誰かが言った。
返事はなかった。全員が、同じ画面を見ていた。
~
十二時十五分。
統合管理系は平常運転。複数水系の連携計画にも、異常な要求は出ていない。男はようやく椅子の背に体重を預けた。
「何も起きないな」
その言葉に、隣の担当者が笑った。
「何も起きないために確認したんでしょう」
「そうなんだけどさ」
男は画面の隅を見る。
二〇三八年一月十九日。十二時十五分十三秒。
秒は、そのまま先へ進んでいた。
◇
その理由のすべては、
秒表示には映らなかった。
何も起きなかった時刻にも、
何も起こさないための理由があった。
プロローグ 了
第1話 火曜日、午後一時
「――では、続きを」
教師の声で、リョウタは顔を上げた。
黒板の右上に、一月十二日と書かれている。火曜日。昼休み明けの五時間目。教室には暖房の乾いた風と、昼食後特有の眠気が満ちていた。窓の外は晴れている。冬の空だけが妙に青い。
リョウタは開いた教科書の上へシャープペンシルを置いた。
アカリの肩が、まだ小さく揺れている。
「眠そう」
斜め前から、アカリが振り返った。
「眠くねえよ」
「今、寝てたじゃん」
「目を閉じて考え事してた」
「何を?」
「どうしたら五時間目を消滅させられるか」
「寝てたんじゃん」アカリが笑った。
その笑い声に釣られて、リョウタも笑う。後ろからシャープペンシルの先で肩をつつかれた。
「リョウタ」
「ん?」
振り返ると、タクミがノートを立てていた。
授業内容とはまったく関係ない文字が、大きく書かれている。
二〇三八年一月十九日。
世界は一度、終わっている。
「……また始まった」
リョウタは前を向いた。
「待て。まだ導入だ」
「聞いてない」
「七日後だぞ?」
「何が?」
「その日だ」
「テスト?」
「もっと重要だ」
「じゃあテストなくなる?」
「なんでそうなるんだよ!」
「静かにしろ、そこ」
教師に睨まれ、二人とも口を閉じる。
アカリが肩を震わせて笑っていた。
すると、窓際から小さな声が飛んできた。
「一応、元ネタはあるけどね」
三人がそちらを見る。声の主はミオだった。机の上に教科書を開き、その下にもう一冊、教師からは死角になる位置に文庫本を隠している。
「二〇三八年問題」
ミオは本から目を上げない。
「Unix時間。三十二ビット符号付き整数を使ってる古いシステムだと、一月十九日に問題が起こる可能性がある」
タクミが固まった。
「……知っていたか」
「有名でしょ」
「機密情報だぞ」
「Wikipediaに載ってる機密情報?」
「機関の情報統制を突破したか……」
「検索しただけ」
ミオがページを一枚めくった。
リョウタが吹き出す。
「完敗じゃん」
「違う。これは想定内だ」
「便利だな、その言葉」
アカリが、立てたままのタクミのノートを読む。
「でも、本当に一週間後なんだ」
「そうだ」
タクミが急に真顔になった。
「一月十九日。十二時十四分……」
「タクミ」
アカリが遮った。
「なんだ?」
「授業聞こう?」
「……はい」
ノートが閉じられる。ミオがまた一枚、ページをめくった。教師の声が教室を満たす。
何でもない火曜日だった。
少なくとも、リョウタにはそう思えた。
~
放課後。
「さむっ」
校舎を出た瞬間、アカリが首を縮めた。
扉の内側に溜まっていた暖気が背中で切れ、冷たい空気が頬へ刺さった。昇降口には上履きのゴムとワックスの匂いが薄く残り、吐いた息だけが白くほどけていく。
「だからマフラーしろって言ったろ」
「持ってきたよ」
「巻いてないじゃん」
「鞄に入ってる」
「それは持ってきたって言わねえ」
「言うでしょ」
校門を出ながら、アカリが鞄を探る。結局マフラーは一番下に埋まっていた。取り出した拍子に、小さな紙袋が落ちる。
「あ」
近くを歩いていた一年生らしい女子が拾った。
「落としましたよ」
「ありがとう!」
アカリは受け取って、そのまま紙袋を開いた。
「一個いる?」
「え?」
「チョコ」
「いや、大丈夫です」
「遠慮しなくていいのに」
一年生は困ったように笑い、頭を下げて走っていった。
リョウタが呆れる。
「拾ってもらった側が物あげようとすんなよ」
「だってお礼」
「知らない人から突然チョコ渡されたら怖いだろ」
「そうかな?」
「そうだよ」
少し先を歩いていたタクミが振り返った。
「アカリはそういう奴だからな」
「どういう奴?」
「道端で倒れてる老人とか見つけたら絶対助ける」
「普通じゃない?」
「怪しいUSBメモリが落ちてても拾いそう」
「それは拾わない」
「『中身見たら持ち主分かるかも』とか言ってパソコンに挿す」
「挿さないって!」
リョウタが笑った。
「いや、アカリならちょっとやりそう」
「リョウタまで!?」
三人の声が冬の道に響いた。少し遅れて歩いていたミオが、顔を上げる。何を話しているのか気になったのか。けれどすぐに興味を失ったように、本へ視線を戻した。
~
水曜日は、何も起こらなかった。
木曜日も、やっぱり何も起こらなかった。
そして、金曜日の午後四時四十八分。
「やっと終わったー!」
昇降口を出たアカリが、大きく伸びをした。
低い冬の日差しが、校舎の壁を斜めに照らしていた。長く伸びた二人の影が、歩き出す前から道路の方へ先に届いている。
リョウタは鞄を肩へ掛け直した。週の初めに入れたままの教科書が、やけに重い。
アカリは伸びをした腕を下ろすと、何か言いたそうにこちらを見た。
どうせまた腹が減ったとか、寄り道したいとか、その程度の話だろう。
聞く前から少し笑いそうになり、リョウタは先に歩き出した。
「今週長くなかった?」
「毎週言ってるぞ、それ」
「今週は特に長かった」
「三日前にも普通に笑ってたじゃん」
「火曜なんて昔すぎて覚えてない」
その言葉に、なぜかリョウタは足を止めた。
「……どうしたの?」
「いや」
何でもない。本当に、何でもなかった。
なのに一瞬だけ、火曜日の教室がとても遠い場所にあるような気がした。
「リョウタ?」
「腹減ったなって」
「絶対違うこと考えてたでしょ」
「考えてない」
「顔に出てる」
「どんな顔だよ」
「なんかこう……」
アカリが眉を寄せて真似をする。
「世界の真実に気づいた顔」
「それタクミだろ」
二人で笑った。
今日は、教師に呼び止められたタクミがいない。ミオも図書室へ行った。だから帰り道は二人だった。冬の日は短く、まだ五時前なのに太陽はもう低い。
建物の隙間から射し込む西日が、道路を橙色に染めていた。
「まぶし」
リョウタが手をかざす。
「綺麗じゃん」
「運転する側は最悪だろうな」
「急に現実的」
交差点が見えてきた。歩行者信号は赤で、二人は足を止めた。
そのとき、反対側の歩道に小さな男の子が見えた。母親から少し離れて歩いている。手には、何か小さなものを持っていた。
青い車のおもちゃだった。男の子が歩道の端へ向かう。母親は数メートル後ろで、スマートフォンを鞄にしまっていた。
「危ないよ!」
アカリが声を上げた。男の子が驚いて振り返り、その手から車のおもちゃが落ちた。ころころと転がっていく。男の子はその場でしゃがみ込んだ。
「あっ」
母親が気づいた。
「待って!」走り寄って、男の子の腕を掴む。
アカリが胸を撫で下ろした。
「よかった」
リョウタも息を吐いた。
「別に道路出てなかったけどな」
「出そうだったじゃん」
「まあな」
「何かあってからじゃ遅いでしょ」
「はいはい」
「その言い方むかつく」
信号が青になり、二人は歩き出した。男の子と母親も、反対側から横断歩道へ入る。
その瞬間、低い太陽が交差点へ差し込んだ。
右折待ちの車。
左折してくるトラック。
ブレーキ音。
誰かのクラクション。
全部が、ほとんど同時だった。
リョウタは何が起きたのか理解できなかった。
ただ、アカリの肩が、自分の隣から消えた。
「――え?」
大きな音。
視界が揺れる。
誰かが叫んだ。
車が一台、歩道へ乗り上げて止まった。
リョウタは立っていた。
立ったまま、動けなかった。
「アカリ?」
返事がない。
何かが喉につかえて、声が出ない。
数メートル先に、人が集まり始めていた。
その隙間に、見慣れた鞄が落ちている。
さっきまでアカリが持っていた鞄だった。
「……アカリ」
一歩。
足がもつれる。
もう一歩。
「アカリ!」
走った。
男の子が泣いていて、母親が抱き締めている。二人とも無事だった。
「アカリ!」
誰かが救急車を呼んでいる。
誰かがリョウタを止めようとする。
そんなもの全部を振り払って、人垣の向こうへ手を伸ばした。
「アカリ!」
夕日が眩しかった。
どうしてこんなに眩しいのかと思った。さっきまでアカリは、西日を綺麗だと言っていた。
×○
「――では、続きを」
教師の声で、リョウタは顔を上げた。
黒板の右上に、一月十二日と書かれている。火曜日。昼休み明けの五時間目。暖房の乾いた風。冬の青空。
「眠そう」斜め前から、アカリが振り返った。
リョウタは答えなかった。
息ができない。
胸が痛い。
理由が分からない。
「リョウタ?」
アカリが笑っている。いつもの顔で、何事もなかったように。
リョウタは自分でも分からないまま、机の下で拳を握り締めた。
「……アカリ」
「なに?」
「いや……」
何を言おうとしたのか、自分でも分からなかった。
ただ、顔を見た瞬間に泣きそうになった。
後ろから、シャープペンシルの先が肩に触れた。
「リョウタ」
振り返ると、タクミがノートを立てていた。
二〇三八年一月十九日。
世界は一度、終わっている。
「……また始まった」
リョウタはそう言ってから、自分で固まった。
「……また?」
タクミのシャープペンシルが止まる。
窓際では、ページをめくろうとしていたミオの指も止まっていた。
アカリだけが、不思議そうに首を傾げた。
「なんの話?」
誰も答えなかった。




